人間関係のお悩みに苦しんでいる人は、世の中に大変多いと思います。うぶすなにいらっしゃる方でも、大半のご相談は人間関係に絡んだものです。
特に、特定の人物に対して、悪しき感情が湧き起こってしまい、その感情そのものに自分がやられてしまう、という状況は、よくあるパターンです。また、常にその人のことが頭の片隅にあり、考えたくもないのに四六時中考えてしまう、というループから抜け出せずにいる人も多いです。モヤモヤした感情と思考に圧倒され、エネルギーフィールドがどんどんネガティブに侵されていくと、気力や体力にまで影響が及びます。
一度このトラップにはまってしまうと、そこから抜け出すのもなかなか難しくなります。というのも、囚われから離脱するためには、強い意思の力とエネルギーが必要だからです。ネガティブに侵されてエネルギーが下がっている状態から、ポジティブに切り替えるのにそれ相応のパワーがいることは、容易に想像がつくと思います。
この状態にはまっている人にありがちなパターンは、「相手を責める」という道を選んでしまうことです。私が今こんなに苦しんでいるのは、あの人があの時私に対してあんなことをしたから、言ったから。あの人があんな振る舞いをしているせいで、私はこんなにつらい思いをしている。あの人さえいなければ、あの人さえ私の人生からいなくなってくれれば、私は楽になれるのに・・・
この思考パターンから抜け出さない限りは、延々と相手を責め続け、そこから湧き起こる負の思考や感情に自分自身が苦しみ続けることになります。
ではどうやったら抜け出せるのでしょうか。
まずは、今自分がどっぷりとはまっている、「感情」や「思考」の次元から一度自分を解放してみることです。次元という言葉が適切かどうかがわからないのですが、ここで言っているのは、エネルギー的なフィールド、領域、レベルのことだと理解してください。感情や思考が存在しているエネルギー領域というものがあります。特定の感情や思考に常に囚われているということは、ここの領域に意識を強くフォーカスしてしまっている状態です。
その状態から抜け出すためには、感情・思考次元より高い次元に波長を合わせなければいけません。意識をそちらにシフトしていくのです。するとどういうことが起こるかというと、まず感情や思考に圧倒されなくなります。次から次へと湧き起こってくるネガティブな感情や、壊れたレコードのように繰り返される頭のおしゃべりが静まります。より高い次元に上がれば上がるほど、そういったものが存在できなくなっていくからです。
そうなると、今自分が置かれている状況を、冷静に見つめられるようになります。その人との関係性、その人はなぜ自分の人生に現れたのか、その人との繋がりの背景にあるものは何なのか、この体験から自分は何を学ぼうとしているのか。そうした”答え”のようなものは、感情や思考の次元には存在していません。起こっている出来事の裏側には、必ずエネルギー的な動きが関係しています。Energy Dynamics、エネルギー同士のぶつかり合い、引き合い、そして浄化。より次元の高い見地から物事を眺めてみると、そういったエネルギーの流れや動きが「見えて」くるため、起こっている状況をすんなり理解しやすくなります。理解が進めば、受け入れることも容易になっていきます。不必要に感情や思考に邪魔されることなく、魂レベルで受け入れられた時、ようやくその問題から解放されることができるのです。
こうしたメカニズムを理解しているだけで、実行にも移しやすくなると思います。習うより慣れろ、で、一度エネルギーの仕組みを感覚で理解できるようになると、どのような出来事が起こっても、どのような人物が目の前に現れても、落ち着いて、少し離れた視点で見つめることができるようになっていきます。もちろん、全く感情や思考が動かないわけではありません。人間である以上、ネガティビティに圧倒されたり、落ち込んだりすることは当然あります。けれど、何かが起こった時に、感情・思考次元にずっと陥り続け、底なし沼からはい出せずにずっと苦しみ続けるようなことは確実に減っていきます。受け入れる許容もスピードも、どんどん広がっていきます。
感情・思考次元に自分がはまってしまっているなと感じたら、一度波動を上げる、という行動をとりあえずとってみることをお勧めします。瞑想、入浴、運動、ゆっくりとした呼吸、自然に触れる・・こういったことをやってみて、意識をシフトさせていくのです。特に呼吸は、とても大きな力を持ちます。自分を高い波長にどんどん合わせていくつもりで、深い呼吸を繰り返してみてください。フラワーエッセンスも、こうした状態にもっていくお手伝いをしてくれます。そうしたエッセンスは、たくさんあります。
起こっている出来事の背景にあるEnergy Dynamicsを理解し、受け入れることが、問題解決のカギとなります。そこの学びがいつまでも得られないままでいると、たとえその人がどこかにいなくなったとしても、しばらくしたらまた似たような人物が目の前に現れることでしょう。しかも今度は、前回の人を何倍もパワーアップしたような人物として。
その人たちは、私たちを苦しめるために現れているわけではありません。逆に、特定のパターンから私たちが抜け出すお手伝いをするために、わざわざ目の前に姿を現してくれているのです。ゲームの1プレイヤーとして、そこにいます。そのゲームを終了させるかどうかを決めているのは、私たち自身です。何度も何度も目の前の敵をかわしては逃げ、また更に強い敵に出くわして闘い、精神的にも肉体的にも疲弊していく道を選ぶのか、もういい加減こんなゲームから抜け出そうと決心して、起こっている出来事の背景にある真の学びは何なのか、謙虚に向き合う道を選ぶのか。
あるのはこの二つの選択肢のみです。そしてどちらを選ぶのかは、私たち次第です。
私が他人のエネルギーに必要以上に振り回されなくなったのは、「他人の発するネガティブエネルギーに対して、自分が責任を負う必要はない」ということを理解したことも大きいです。
たとえその感情が自分に向けられたものであったとしても、人が発する愛に基づかないエネルギーは全て、発した人自身の問題に起因しています。私たちは、自分の内側に抱える問題には全責任を負いますが、他人の抱える問題には、本来責任を持つ必要がありません。それは、その人が全責任を負うべきものだからです。
誰かが私を見て、その人の何かが刺激され、私に対して怒りをぶつけてきたとしても、その怒りの発生源は私にはありません。その人の中にあります。私はただ単に、その人の視界に入っただけの媒介に過ぎません。その人は、おそらく私以外の人に対しても、似たような状況が起こる度に、同じような感情を爆発させていることでしょう。その人が抱える、怒りの発生源となっている心のお荷物を捨てない限りは。そして、その人がいつそのお荷物を捨てるのかは、その人が決めることであって、他の誰もが無理強いすることはできないのです。
本来内側が愛で満たされている人であれば、他者に対して攻撃的な言葉や感情をぶつけることはしません。そのようなことをするメリットは何一つないからです。人に何かを教える必要がある時でも、傷つけない表現や声のトーンを選ぶでしょう。人が、誰かを傷つけるような言動を取る背景には、必ずその人の心の内にある悩みや苦しみ、トラウマ、コンプレックス、恐れ、満たされない思いなどが関係しています。それを手放すことに抵抗があればあるほど、人は自分以外のものに原因を求めようとします。
こうしたことを理解するようになって、ネガティブな感情が渦巻いている人と接触したとしても、その責任を自分が背負いこむことはしなくなりました。そしてそれと同時に、自分の中でネガティブな感情が湧き起こった際、それを他人のせいにもしなくなりました。
かつては、人がいっぱいいるような場所に行くのが苦手でした。大概そういう場所に行くと、そこにいる人たちの様々な念や感情などを感じ取ってしまい、自分もその影響を受けて体が重くなったり、頭が痛くなったり、吐き気がしてきたりしたからです。
エネルギーの世界のことを学ぶようになって、エネルギーにより敏感に反応するようになったことは以前書きましたが、取り込んでしまったエネルギー(特にネガティブなもの)の浄化を自分でスムーズに行うことができていなかった時期は、あれこれとツールに頼り、クリアーになったなと感じるまで時間がかかっていました。
今でもエネルギーの世界のことはわからないことばかりですし、自分のエネルギーフィールドのコントロールも完璧にこなせているわけではありませんが、以前と比べるとだいぶスムーズに自力で浄化ができるようになっていったのは、エネルギーの仕組みを頭ではなく体感として理解できるようになってからです。
「怒り」「憎しみ」「嫉妬」「悲しみ」「恐怖」「罪悪感」といったネガティブなエネルギーというのは、波動(バイブレーション)が荒く、低い次元にあるものです。それに対して、「愛」「喜び」「希望」「慈愛」「ゆるし」といったポジティブなエネルギーは、波動が精妙で、より高い次元にあります。大前提として、高い波動のエネルギーは、低い波動のエネルギーを凌駕します。つまり、強いということです。闇は光が当たれば消えます。真っ暗な部屋で電気をつけた瞬間、暗闇はなくなります。それと同じように、例えば、「憎しみ」の感情に対して「愛」の感情をもってすれば、「憎しみ」は消えます。
・・・そんなことはない、「憎しみ」が勝つことだってある、と思うかもしれませんが、それは憎しみが「勝って」いるのではなく、人が憎しみを「選んで」いるだけです。本来、愛のエネルギーの方が遥かに強いので、憎しみ対して愛で対抗すれば、必ず愛が勝ちます。憎しみが消えていきます。本人が選びさえすれば、そいうことが自然と起こります。これは観念的なことではなく、エネルギーの世界で実際に起こっている、物理現象であり、サイエンスなのです。
といったことを、頭では理解していたつもりでした。けれど、実際にそれをすんなり実行できるかというと、また別の問題でした。自分の中に、抵抗と葛藤があったからというのと、長年の習慣がなかなか消えなかったからです。頭ではわかっているのだけれど、どこかに疑念があったり、いざネガティブエネルギーに直面した際、それに対してつい自分の中にあるネガティビティが先に反応してしまうという、それまでの癖がなかなか治りませんでした。
ただとにかく、ネガティビティに対してネガティビティで反応し、自らが産み出した負のエネルギーによって参ってしまう、というサイクルからは、何とか脱却したいと思っていました。もうこんな馬鹿馬鹿しいことをこの先の人生もずっと繰り返していくのはまっぴらごめん、もう心底うんざりでした。ですから、愚直に訓練を続けました。自分自身の浄化と、エネルギーワークの訓練です。何度も言いますが、私自身今でも完璧にできているわけではありませんし、まだまだ発展途上の段階です。しかし、やはり習うより慣れろで、エネルギーワークというのも、意識して行っていると、だいぶ感覚がつかめてきます。
たとえば、怒りでプンプンしている人がいたとします。以前の私でしたら、そういう人の近くにいったり、その人が怒りを吐き出しながら話すのを耳にしただけで、その怒りのエネルギーを受けてしまい、苦しくなっていました。今は、もしそういう人が目の前にいたとしたら、私はまず自分のエネルギーフィールドの中に、相手の負のエネルギーを取り入れないように意識をします。よく、ブロックをする、といったやり方を耳にしますが、ブロックというとどうしても拒絶してしまうイメージがあり、否定するということにもなるので、私はよほどの強いネガティビティに直面した時以外は、その方法を使いません。自分のフィールドは守りますが、それは他の何物をも通さない、という性質のものではなく、自分にとって必要のないエネルギーがもし入ってきたとしても、そのまま”流れていく”イメージです。滝が流れるように、常に浄化が行われている感覚です。その時に、やはり最強なのが「愛」のエネルギーです。愛は全てを凌駕します。ネガティビティに足を引っ張られそうになった時こそ、自分の中を愛で満たすことが大事です。なかなか葛藤があって愛のエネルギーにフォーカスすることが難しい時もありますが、それでも諦めずに、訓練訓練と思ってやっています。うまくできなくても、自分を責めないようにしています。
だいぶ感覚がつかめてくると、本当にポジティブはネガティブに勝るのだなということが、頭での理解だけではなく、確信に変わっていきます。こうなってきて大きいのが、「恐怖心」が薄れていくことと、自分の持つパワーに対して信頼感が増していくことです。どんなにネガティブな人がネガティブな感情や念を放っていたとしても、自分さえそれに同じ波長で反応しなければ、影響を受けることはないわけです。影響を受けることがないのであれば、そういった人を必要以上に警戒したり、恐れたりしなくてすみます(わざわざ仲良くする必要もありませんが)。何度も成功体験を積んでいくと、こうしたエネルギーワークは自分にもできるものなのだ、という確信が生まれ、そのことが自信となって更にワークがスムーズにいくようになります。これは、本来誰しもができることです。
これが聖人(浄化が究極に進んだ人)レベルになると、強烈な愛のエネルギーを放つことで、ネガティブまみれの人が一気に浄化される、ということが起こるのでしょう。そうしたことも、奇跡と捉えられているかもしれませんが、エネルギーを理解するようになると、ああなるほどな、と思います。
よく、ネガティブエネルギーを「受けてしまった」とか、「取り込んでしまった」という表現を耳にします。実際、多かれ少なかれ、ネガティブなエネルギーを発している人はあちこちにいます。そういう人の近くに行ったり、話をしたり何らかの接触をした場合、確かにその人が発しているエネルギーを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまい、影響を受けることがあります。
ただ、ここからが問題なのですが、ある瞬間にスッと入ってきたエネルギーをその後どう処理するかは、各々の対応にかかってきます。受けたものをサッと流し去るのか、受けて自分の中に取り入れたまま、放置するか。放置といっても、そのエネルギーに”反応”しているのは自分なので、本来受け身であるわけではありません。基本的に、取り込んだエネルギーに反応し続けているということは、自分の中にも似たようなエネルギーを発する要素があるということです。ある時に人からもらったエネルギーがいつまでも自分の中から消えないような気がするのは、実は、自分の内面にある要因が引き金となっていて、最終的にそこが発生源になっているだけだったりします。受けたのは一瞬のことで、そこにいつまでもしがみついているのは自分に原因があるということです。波長の合わないエネルギー同士が反応することはないので、自分の中に似たような要素がなければ、受けたエネルギーは自然と去っていきます。
他人から受けたエネルギーの処理は、自分で何とかすることができます。サッと浄化するテクニックもあります。自分の中に似たような要因がなければ、影響を受けることもなく、そのまま浄化されて終わりです。いつまでもそのエネルギーが消えない場合、自分の何がこれに反応しているのかということに気づき手放すことで、その後いつまでも影響を受けることがなくなります。
自分にとってあまり心地よくないエネルギーは、できればすぐに自分のフィールドから取り除きたいと思います。それなのに、いつまでも取りつかれたかのようにそのエネルギーの影響を受け続けているのは、そこに反応している自分の中の要因を手放していないからです。手放すことに抵抗があり、あえて目を向けないようにしていたりします。本来自分の身に起こるあらゆることは自分に責任があるのですが、人は己の内面を見たくない時には大概他人のせいにします。あの人のせいで私は今こんなに苦しいのだ、と思っていた方が楽な面もあるのです。しかしその状態は本来自由ではなく、ネガティブなエネルギー(感情)の影響をいつまでも受け続けることになるので、苦しいはずです。
ネガティブエネルギーの影響を受けてしまったと感じたら、浄化の訓練だと思ってみてはいかがでしょうか。または、内側のお掃除のチャンスでもあります。その際のポイントは、決して他人のせいにせず、ベクトルをひたすら自分に向けることです。
他人のエネルギーを変えることはできませんが、自分のエネルギーフィールドは全てその人の管轄ですから、いかようにも変えることができます。
エネルギーに敏感で繊細な気質の人を、”HSP"(Highly Sensitive Personの略)とか”エンパス”等と呼んでいます。こうした呼称ができたこと自体がそもそも割と最近のことで、それ以前には今ほど広く世間でも認知されていなかったというか、認識はされていたかもしれないけれどさほど注意を払われてこなかった、といえると思います。
10人に1人とか、日本人は割合が多くて5人に1人はいるともいわれています。HSPやエンパスのセルフチェックなどをやってみると、例えば20個の質問のうち19個くらいがヒットし、様々な人が挙げている定義の大方の項目に当てはまるので、私自身もいわゆるHSP、エンパスなのだろうと思います。
エンパス(とここでは呼びます)というのは持って生まれた気質なので、基本的には一生変わることがありません。しんどいからもうエンパスやーめた、と脱ぎ捨てることはできないのです。しかし本来エンパスであるということは、とても貴重なギフトであり、実りある人生を送ることを可能にするツールでもあります。
私がエンパスであるという状況は生まれた時から今に至るまで全く変わっていませんし、むしろエネルギーを感じる力は昔より高まっていて、感覚もより敏感になっていると思います。かつては、自分の敏感気質がしんどくて、どちらかというと厄介なものだと思っていました。けれど、私が自分自身のエンパスという気質に対する認識を変え、ギフトの使い方、そして対処方法を学び、実践していくにつれて、エンパスという気質とうまく付き合えるようになっていきました。今では、エンパスであるということはなんてありがたいことなんだろうと感謝していますし、エンパスであることを自分なりに生かして、より豊かで喜びの多い日々を送れていると思います。本当にちょっとしたコツというか、意識と習慣次第で、エンパスをプラスにもマイナスにも利用することができます。
私の個人的な、エンパスであることでどちらかというと苦しみ、きつい思いをしていた日々から、エンパスを受け入れ、上手に付き合えるようになるまでの変遷を、簡単に書いていきます。
〈エンパスであるということをそもそも明確に認識していなかった時代〉
言葉をしゃべる以前から、そもそも言葉そのものを理解していなかったからこそかもしれませんが、周囲の大人たちがどういったことを話しているのか、それがどういうニュアンスを含み、裏にどんな感情が隠れているのか、ということを”感じて”いました。言葉を理解するようになってからも、話している大人が言葉とは裏腹に実際はそうは思っていないんだろうなとか、この人は本当はこういうことを望んでいるんだろうな、といった、人の本心や感情を感じ取っていました。そのことで、大人たちが時には本心とは異なることを話したり、時には嘘をついたりすることにショックを受け、また、人が内面に抱える感情のパワー(特にネガティブなもの)に圧倒されてしまうことがよくありました。
また、幼い頃は特に、テレビや本などから放出されるエネルギーにとても敏感に反応していました。悲しいお話であればその悲しみにどっぷりと浸かり、まるで自分がそのお話の世界と一体化したような感覚になり、しばらく引きずってなかなかその感覚から抜け出せないことがありました。もちろん、楽しいアニメや本に触れた時は自分も楽しい気分になったりしていたのですが、どちらかというと、怒りや悲しみ、苦しみといったネガティブなエネルギーにより敏感に反応していたように思います。とにかく、一度圧倒されてしまうと、しばらく引きずるのがしんどかったです。この時期に目にしてしまった残酷なシーンや暴力的なシーンなどは、しばらくどころかその後何年もトラウマとなり、繰り返しそのシーンが思い出され、その影響からくる恐怖心から抜けだすことができませんでした。
〈エンパスであるということに気づき始めたものの、それを上手く使いこなせていなかった時代〉
小学生になった辺りから、自分が何となく他の人に比べて、モノや場所や人のエネルギーに敏感に反応しているということに気づき始めました。他の人は感じていなかったり、気にしていないことを、自分は感じ取り、気にしていることがよくありました。相手が、自分と同じように感じていないことを知った時にはなんとなく寂しい気持ちになり、分かり合えないような、孤独感がありました。共鳴し合える人は周囲にいないと思い込んでいたので、その時の私は、本の世界に居場所を追い求めました。
思春期になった頃からは特に、自分の感じていることを率直に語ることで、嘲笑されたり、引かれてしまうことが嫌で、本当に思っていることや、感じていることなどを、口に出すことをためらうようになっていきました。この状態は、だいぶ大人になるまで続きました。どうせ共感されないだろうから、話しても自分が悲しくなるだけだと思い、話すことを躊躇していました。
相変わらず、人の感情や思いに敏感に反応し、その重みに圧倒されることは日常茶飯事でした。この頃は、周囲のエネルギーをそのままスポンジのように吸収しており、それを意識的に浄化する術を知らなかったので、しんどかったのも当たり前だと思います。また、幼少期からの癖で、ポジティブなエネルギーよりネガティブなエネルギーに容易に波長を合わせてしまい、ネガティブエネルギーにより敏感に反応するようになっていったため、自分のエネルギーフィールドがネガティブで充満してしまうことがよくありました。当然ですが大変キツかったです。おかしなことに、このしんどさを和らげてくれたのは、明るく楽しい本や音楽などではなく、人間の内面のダークな一面を表現した本や音楽などでした。こうしたものに触れていると、不思議と気持ちが和らぐのを感じたものです。
〈エネルギーの浄化という術を知り、実行するも、エンパスであることを真からは受け入れられていなかった時代〉
大人になり、家庭を持った辺りから、エネルギーヒーリングの世界を知るようになりました。自分の中に取り込んでしまったネガティブエネルギーを浄化するツールや方法を学ぶようになり、だいぶ楽にはなっていきました。ただ、このことであるジレンマが生じました。それは、エネルギーの世界により意識的になることで、今まで以上に様々なエネルギーに対して敏感になってしまったことです。それまでも、集団や様々な人がいる場所がどちらかというと苦手というか、身構えてしまってはいたのですが、こうなってくると、必要以上に意識してしまうようになり、人込みに行ったり満員電車などに乗った日には、家に帰るまでに激しい頭痛に襲われたり、気分が悪くなったり、体が重くなったりしていました。プロテクションや浄化のフラワーエッセンスが手放せませんでしたし、飲み忘れたりした時には軽いパニックになっていました。
誰かと話していて、その人の思い(特にネガティブなもの)を感じ取ったりした時も、そのエネルギーを吸収してしまい、具合が悪くなったりしていました。あまり良い気を放っていない場所に行った時も、それを感じた瞬間にそのことを意識してしまい、肩が重くなったり頭痛がしたり、何らかのマイナスの影響を受けてしまうことが多かったです。自分で自分のエネルギーフィールドをコントロールできると信じていなかったので(無力だと思っていた)、フラワーエッセンスやエネルギーヒーリングなどのツールに頼りっぱなしでした。
この頃は、周囲の様々なエネルギーに翻弄され、きつい思いをすることが多く、エンパスであることをポジティブに活かす余裕はありませんでした。エンパスというのは、脆く、弱い存在だと思っていました。
〈エネルギーフィールドをコントロールしているのは自分自身であると気づき、ツールに頼らず周囲の様々なエネルギーの影響を必要以上に受けなくなってから〉
それまでは、エネルギーというものに対する自分の姿勢は、どちらかというと受け身でした。やってくるものは避けられないし、受けてしまったものは何かの助けを借りて取り除くしかない。そのように考えていました。しかし、あれこれとツールを試したり、個人的に様々な経験と学びを深めていくにつれ、ある時から、結局は人のエネルギーフィールドを全面的にコントロールしているのは、その人自身ではないのだろうか、と思うようになりました。一見無力で周囲の影響を避けられないように感じていたとしても、そもそもそのように定義づけしているのはその人自身です。その状態を変えたければ、定義づけそのものを変えればいいわけです。「私は無力である」から、「私が望めば何でも可能である」と認識を変えるのです。そして、「どのようなエネルギーに対しても、私は自分の力で対処できる」と信じていれば、そのようになります。
この事実に気づいてから、実際にツールに頼らずエネルギーをコントロールできるようになるまで、しばらく時間はかかりました。頭ではわかっているけれど、本当にできることを心から信じ切れていない、中途半端な時期がだいぶ続きました。今現在も、完璧にコントロールできているわけではありません。けれど、かつての無力だった自分と比べて、だいぶ主体的に自分のエネルギーを扱えるようになりました。
こうなってから気づいた大きな事実があります。それは、外部からやってくるエネルギーをたとえ”受けた”としても、そこに自分が反応さえしなければ、それは私のエネルギーフィールドを素通りして去っていく、ということです。確かに、私たちの周囲には、多種多様なバイブレーションのエネルギーが充満しています。そんな世界に身を置いているのですから、その一つ一つに逐一反応をし、その都度自分のフィールドに取り込んでいたら、身が持ちません。かつての私は、逐一反応して疲れていました。今は、意識とイメージワークで、どのようなエネルギーがやってきたとしても、それをスッと浄化し、流すことができるようになりました。エネルギーに対処できるということは、他人の影響を必要以上に受けないということでもあります。どんなネガティブエネルギーを放出している人と接したとしても、そのエネルギーの影響を受けない術はあります。ヒーリンググッズなどのツールの助けを借りなくても、本来は私たち全てに、そうしたことができる力が備わっているのです。もちろん、そのことを心の底から信じることができるようになるまで、一時的にツールの力に頼っても良いと思います。私も、自分に備わっている力を信頼できるようになるまでは、そうしたものにたくさん助けられ、守ってもらいました。そのような過程も必要だったと思います。
また、自分の意識が大きく変わっていったのは、長年続けてきた瞑想の効果がとても大きいと思います。これをやっていなかったら(今も毎日続けています)、今現在このような状態にはなっていなかっただろうと断言できます。
エネルギーに意識的になり、それに振り回されるのではなく、上手に付き合えるようになっていけば、自分がエンパスであることもプラスに活かせるようになります。エンパスだからこそ得られる感動や知識、体験があります。また、紆余曲折を経たことでパワーアップした自分をいかして、何かを生みだすことも、他者に貢献することもできます。本来そこを目的としているエンパスも少なくないのではないかと思います。まずは、自分は「弱い」のではなく「強い」のだということに、認識を改めること。そこから全てはスタートします。
戦国時代の書物を読んでいると、あの時代の武家社会に浸透していた、もののふとしての共通概念、パラダイムの影響力を強く感じます。いわゆる「義」を重んじ、主君に忠義を誓い、領土を守ることと拡張することに心血を注ぎ、武士としての名に恥じない生き方・死に方を全うする。
特に、武士としてはその死にざまが無様であることは大変恥ずべきことであるという認識が強かったようで、切腹の仕方もいかに潔く豪傑であるか、ということが重要でした。
ある記録に次のような記述があります。敵に追い詰められたある武将の奥方が脇差で自決した後、供をしていた乳母が同じ脇差で喉を突いて果てます。すると、そばに控えていた付き人の男が、「女がこのように潔く死んでいるのに、男としてこれに劣るわけにはいかない。この場を去って城に戻り、戦に参陣して活躍したとしても、周囲にみせる顔がない」といって、戦場に戻る選択をせず、そこで腹を十文字に掻き切り、はらわたを引き抜いて喉を突いて(この切腹の仕方は潔いものとされていた)果てました。
このように、武士として逃げる姿勢をみせることは、当時は大変恥ずべき事でした。あの時代、自分が武士として潔く生き・死んだことが、いかに周囲や子孫に伝わるかということを、強く意識していたことが伝わってきます。「面目」「末代までの恥」「末代までの名誉」という文言は、この時代の文章に頻繁に出てきます。
また戦国の世では、主君が亡くなるとその後を追って臣下が自殺をする「殉死」という風習がありました。影響力のあった武将が亡くなると、二桁にも上る殉死者が出ることもあったようです。更に、殉死の殉死(主君の後を追った臣下の臣下がその後を追う)などもありました。今では考えられない風習ですが、この時代は、臣下が主君に対して命を投げ出して忠義を示すことの意義が、非常に大きかったのです。
武士というと、勇猛果敢で豪胆なイメージがありますが、戦いに明け暮れていた武士たちが、一方では芸能を愛し、洗練された和歌や文章を残していることを、様々な記録によって知ることができます。信長公が舞を好み、自らも時々舞っていたことは有名ですが、他にも茶の湯や相撲を楽しみ、武具や装束も細部までこだわりをもって作らせるなど、おしゃれのセンスでも当時の最先端を走っていたようです。一流の絵師に描かせた安土城の数々の襖絵は、息をのむほどの美しさであったと、訪れた人が記しています。多くの戦場で勇壮な立ち居振る舞いをする一方、繊細で優美なセンスの持ち主でもあったようです。
伊達政宗公の父である輝宗(てるむね)公は、能を好みました。奥州という都から離れた場所にありながら、能楽に力を入れ、能楽師を雇ったり能楽堂を立てたりと、戦闘だけでなく芸術の振興にも努めていました。そんな輝宗公でしたから、跡取りである息子政宗に対する教育にも力を注ぎ、遠方から著名な僧侶を招いて、政宗の教育者にあてがいます。政宗は幼少の頃より頭脳明晰だっただけでなく、和歌もよく詠んだとのことで、11歳の時に一族の連歌の会に参加した時の歌「暮わかぬ月になる夜の道すか(が)ら」が残されています。当代一流の僧侶から教育を受けた成果もあってか、政宗は武芸のみならず文芸の才も花開きました。23歳の時、小田原攻で初めて秀吉の元に馳せ参じた際、遅参を責められてしばしの間幽閉を余儀なくされます。首も飛ぶかもしれないという危機的な状況の中、政宗は大胆にも千利休に茶の湯を習いたい、と申し出ます。奥州のどんな田舎者がやってくるのかと思っていた秀吉は、政宗の意外な文化人ぶりと豪胆さを面白く思ったのか、遅参を許し、その後も何かと目をかけるようになります。
源平合戦の時代から戦国時代末期まで、瀬戸内海を中心に活躍した村上水軍ですが、こちらも豪傑な海賊集団のイメージからは想像できないような、繊細で哀愁漂う数々の歌を残しています。村上水軍の1グループである三島村上水軍は、伊予の国大三島に鎮座する大山祇(おおやまつみ)神社を信仰していました。合戦に赴く前には、よくここで先勝祈願を行い、その際風流なことに奉納連歌を行っていました。そこで詠まれた膨大な数の歌が、今でも神社に残されています。その一部をご紹介します。
旅衣末はるかなるやどりにて
こぎぬる船にかねぞくれける
なか(が)き日もわずかになみの浦つたい
なきにし雁もこえかすむなり
とにかくに今際(いまわ)の身こそ悲しけれ
末は必ず仕えん御ほとけ
とうほども涙にちぎる秋の袖
したしかりつる中のふる塚
ますらをが弓づるほのかにかき鳴らし
はばさす玉こそ世にはあだなれ
武士(もののふ)は老いても心ゆるさじな
よむ歌にこそ名をものこさめ
あかつきの別れの鳥は鴫(しぎ)の声
田面(たも)の庵を出るますらを
ねざめてはそれかあらぬかほととぎす
なごりかなしきよこ雲のそら
のがれても世のほかならぬ山の中
幾度なれし戦いのにわ
数々の思いあまりて捨る身に
つらきむかしぞいまもくるしき
やみとなる心は月もなにならで
あさくおもうな親と子の中
別れてもただうちそうる心して
親のすがたをのこすうつし絵
ろうたきの匂いもふかき夕まぐれ
これをや恋のかたみともせん
物おもうこいのみちこそ哀れなり
こころの末をいつかしられん
手枕にむすびとめてよ夜半の夢
あさくなりぬるあかつきのそら
かたみとぞ思う扇に手をそえて
折々におう人の移り香
慕えども今朝の別れを留めかねて
散りゆく花のおしき雨かげ
夜な夜なの面影のみやしたうらん
なかなかきえぬ袖のうつり香
これらは皆、戦いに赴く前の海軍武士たちが交互に詠んだ歌です。心の内が込められた歌の数々を読んでいると、故郷や家族、恋人の元を離れて戦地へと向かう武士たちの、胸が詰まる程の哀愁が伝わってきます。勇ましい武士とはいえ、人は人です。時流と環境に抗えず、大きな波に身を委ねざるを得なかったこの時代の武士たちは、表向きの勇猛さはさておいて、心の内では人間としての苦しみや悲しみ、葛藤を抱えていたのではないか。心の底から喜び勇んで戦場に向かう人など、本当はいなかったのではないだろうか。そんな風に感じます。
そんな切ない武士の心情が強烈に伝わってくる、一つの遺書があります。信長の小姓として最期まで付き従った森蘭丸の兄、森長可(ながよし)の残した書状です。
長可は、父可成(よしなり)の代から信長に仕え、可成が浅井・朝倉軍との戦いで討死した後、13歳で家督を継ぎます。勇猛果敢な武将として数々の戦で名を挙げ、信長が本能寺で死んだ後は、秀吉につくことを選びます。そして、本能寺の2年後に秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いにおいて討死、27歳で生涯を閉じることになります。その戦いの直前に書いた遺書が残っています。
大切な壺や茶碗、刀の類を誰それに渡してください、といった内容と一緒に、「母は生活できるだけの堪忍分を秀吉様からもらい、京に入るように算段してください」と母親を気遣う文、そして、末の弟千丸のことを、「千丸に私の跡を継がせるのはいやでございます」と書いています。更に、娘のおこうについて、「京の町人のところに嫁がせるようお願いします。薬師のような人に嫁がせるのがいいと思います」と書いているのが胸を突きます。長可には、蘭丸の下に坊丸、力丸、千丸という3人の弟がいたのですが、蘭丸・坊丸・力丸の3人は、本能寺の変で同時に亡くなっています。千丸自身は信長の小姓になりたいと望んだとのことですが、幼少ゆえにまだ奉公に上がってはいなかったので、命拾いをしました。
父親と3人の弟を戦で亡くし、自分自身もこの後の戦いで討死するかもしれない。そんな状況の中で、武士としての家の存続よりも、1人の人間として、生き残った末の弟の身の上を案じているのが印象的です。もしかしたら、夫と息子を相次いで亡くした長可の母親の胸の内を慮った可能性もあります。戦国の世ではよくあったこととはいえ、3人(そしてすぐに4人目も)の息子を次々に亡くした母親の気持ちはいかほどのものだったか、記録には残っていませんが、察するに余りあります。そして、娘には武家に嫁がせたくない。そんな素直な父親としての心情も、痛々しいほど伝わってきます。いくら武勲を挙げ、名誉を得たとしても、家族を亡くす痛みや、家族を残して散る身の虚しさを、自分以外の愛する人には味わわせたくない。そんな人としての率直な想いが、この遺書から滲み出ています。
義を重んじ、名誉の死を望んだ武家社会の道徳概念と生死観。それは確かに強烈に浸透していたたに違いありませんが、必ずしも全員が、そのパラダイムに完全に飲み込まれていたわけではないように感じます。盲従しようにも仕切れなかった哀しき武士たちも、少なからずいたのではないか。芸術を愛し、繊細な心の内を歌という形で残し、家族の幸福を願ってできる限りの対処を望んだ、人間としての武士たち。世の無常さに直面しつつ、人としての心を失わずにいかにして自分を保っていたのか。あのような時代に生きることは、繊細な人であれば特に、タフな経験であっただろうと思います。
【参考文献】
「仙道軍記;岩磐軍記集」歴史図書社
「伊達史料集(上)」戦国史料叢書10 小林清治
「村上水軍全史」新人物往来社 森本繁
「戦国武将の手紙を読む」中公新書 小和田哲夫
”怒り”という感情は、一般的にはネガティブなものと捉えられていますし、実際心に抱く感情としては心地よいものではないかもしれません。
しかし、これまでにみてきたように、怒りが私たちに教えてくれることはたくさんありますし、私たちの内側に本当は何があるのか、怒りという感情を通して気づくことができます。
怒りが沸き出てきてつらい、「怒らない自分」になりたい、と望んだ際、一生懸命”怒り”そのものを消そうと努力したことがあったかもしれません。深呼吸をしてみたり、別のことを考えてみたり、楽しいことに目を向けてみたり、好きなことでリラックスしたり・・
こうしたことはもちろん、冷静な自分になるために大きな助けとなってくれますが、これだけで終わってしまっていたとしたら、怒りの根本原因を解決したことにはなりません。エッセンスにも、怒りを浄化してくれるものもあります。こうしたエッセンスを飲んでいると、確かに”怒り”がおさまり、一時楽になります。しかしやはり、本当はこれでおしまいではないのです。エッセンスを飲んで感情が一時静まったら、その時こそが内面に目を向けるチャンスです。落ち着いて、冷静に、自分の内側に何があるのか、何が怒りを引き起こしているのか、問いかけてみてください。
怒りの大元が解消されないままであれば、一時的に怒りから解放されたように感じても、またきっかけがあれば必ず同じ反応が起こります。場所を変え人を変え、それはやってきます。そのきっかけは、私たちを痛めつけるために起こっているのではありません。気づかせるために起こっています。愛です。あなたを縛っているお荷物を手放しなさい、もうその時期ですよ、と教えてくれているのです。そして誰でも、その人の意思次第で、手放して自由になることができます。本当は、ツールさえも必要ではありません。いつだって、誰だってできることです。
手放しのプロセスを選ばないこともできます。この世の中では、その選択をしている人の方が多いかもしれません。けれど、必要のない怒りを抱えて生きることは、心に重荷を背負って生きることであり、精神的に苦しいだけでなく、肉体にさえも良くない影響を及ぼします。感情もエネルギーです。周波数の低いネガティブな感情のエネルギーは、私たちのエネルギーフィールドを歪め、そこから様々な現象となって肉体に現れます。物理的な出来事として起こることもあります。私たちの身に起こっている現実は、私たち自身が創り出しているものです。
人間なのですから、様々な感情が湧き起こることは当たり前のことです。恥ずかしいことでも何でもありません。肉体をまとっている以上は、感情から完全に解放されることはないでしょう。しかし、感情に支配される状態ではなく、感情をコントロールする状態になることはできます。手なずけるようなイメージです。
ネガティブな感情を抱くことは「悪いこと」という認識を持っている人が多いかもしれません。実際は、ネガティブな感情ほど、私たちの心の内をわかりやすく映し出してくれるものですし、私たちが自由に楽に生きるための、道しるべとなってくれるものです。
”怒り”はネガティブな感情という認識が強いかもしれませんが、時には必要な怒りもあると思います。
過去に、息子が学校で友達同士のトラブルに巻き込まれた時の話です。その問題の対応に当たった先生が、当事者の子供達に脅すようなことを言ったり、何時間も密室で怒鳴りながら尋問したりして、精神的に追い詰められる子が出てくる事態となりました。
そのことを子供から聞いた私たち保護者は、これは問題だからきちんと抗議をしようという話になりました。そして、学校に掛け合って教頭・校長も含めた話し合いの場を設けてもらい、きちんと抗議をしました。教育者という立場である先生が、子供を傷つけるようなことをするのはおかしいのではないですか、対応の仕方が間違っているのではないですかと、親としての憤りをはっきりと伝えました。
不正を摘発したり、犯罪行為を咎めたり、してはいけないことをした子供を親が叱ったり、といった場面で発する怒りは、相手に間違いに気づかせるパワーを含むと思います。
ちなみに学校に抗議した際、個人的な感情だけで先生や学校を恨むことだけはしないようにしようと思いました。そのようなことをすれば、前回書いたリベンジループにはまることになるからです。怒りは放っておくといくらでも膨張するものなので、どこかで冷静にブレーキをかける意識を持たなければ、自分で自分をコントロールできなくなることさえあります。抗議をすることで、先生や学校に問題として認識してもらい、今後同じように傷つく子供が出ないようにしてもらうことが第一目的でした。なので、きちんとこちらの意見を伝え、それなりの対応をしてもらったら、あとはそれ以上責めたりせず、先生の心の状態も含めて全て良い方向に進むことだけに意識をフォーカスするようにしました(なかなか葛藤はありましたが)。
物事が解決したら、もう終わったこととして執着しないことが、こういった体験をした際のポイントかと思います。怒りを必要以上に引きずってメリットとなることはありません。私自身も完璧にできているわけではありませんが、やはり根底に”愛”があること、これが基盤になっていれば、誤った方向にいくことはないのかなと思います。
怒りのさらにもう一つのパターンを挙げます。
それは、
「自分が愛されていない」「自分が大切にされていない」
と感じる時に発する怒りです。
街中でよく、他人とすれ違った際少し肩が当たっただけで激怒している人や、店員さんや係員さんの対応やちょっとしたミスに対して怒りを露わにしている人を見かけます。
誰かに馬鹿にされたと感じた時、自分の意見が通らなかった時、話をちゃんと聞いてもらえなかった時、失礼な態度をとられた時、自分にとって大切な存在(こと、物、人、ペット、思想、アイドル、趣味、ect.)を軽んじられた時、無視された時・・・
こうした時に湧き出てくる怒りは、自分という存在が大切に扱われていない、つまり愛されていないと感じた時の反応です。
これまでの人生において、特に”愛されている”、”大切にされている”と感じることが少なかった人は特に、過敏に反応することが多いように思います。
アンジェリックエッセンスに、「Being Completely Loved」というエッセンスがあります。これは、自分の内側を愛で満たしてくれるエネルギーです。
愛を外へ求めるのではなく、まず自分の中を愛でいっぱいにする。自分で自分を大切にする。自分は本当はとても愛されている存在なのだということに気づく。
自分の中が愛で満たされると、他者の反応は今までのようには気にならなくなっていきます。それは、愛を外側に求める必要性がなくなるのと、心が満たされたために思考にゆとりが生まれ、他者をそれまでとは違った見方でみることができるようになるからです。
そして、過去の出来事も赦せるようになっていきます。あの時あの人が私に対してあんなにひどいことをしたのは、あの人の心に余裕がなかったからなのだな。あの人も苦しかったのだな。あの時人を傷つけるような言葉を発したのは、あの人自身が何かを恐れていたからなのだな。私を拒絶したのは、あの人自身が自分を受け入れられていなかったからなのだな。
そういった、他者の痛みも愛の目線でみることができるようになります。
トラウマの解消には、かならず「赦し」のプロセスが必要になってきます。そのためには、まずは自分の中の怒りに気づくこと(存在を否定しない)。そして、その怒りが何に反応して湧き起こっているのかを冷静に見つめること。そしてそこに愛を当て、手放す。
恨みや怒りを抱えて生きていくのは、とてもしんどいことです。日常の些細な出来事や、目にすること耳にすることにいちいち怒りで反応するのも、しんどいです。過去にいじめられた経験を持つ人が、「この恨みは一生忘れない」と言っているのを時々耳にします。そんな心の状態が本当の幸せではないことに、本人もどこかでは気づいていると思うのですが、その人の中の何かが抵抗しているのだと思います。
「自分が成功することで、相手を見返してやる」
と言っていたりもします。しかしたとえその人が定義する”成功”を手に入れたとしたって、心の中に恨みと怒りを抱えて生きていれば、決して真の平穏が訪れることはありません。
長年抱いてきた恨みほど、手放す、つまり”赦す”ことを決意するのに抵抗をおぼえるものです。大概、決意するまでにかなりの葛藤があります。実際の赦しのプロセスというのは、”決意”をした時点で半分以上は終わっているようなものです。なぜなら本気で決意したのであれば、あとは自然の流れでプロセスが進んでいくからです。多くの人は、この決意をするまでに至らないまま、足踏み状態をしています。そして繰り返し、きっかけとなる出来事が起こる度に怒りを放出し、それを他人のせいにすることで、本当の原因は自分の中にあることに気づこうとしません。そもそも自分の中の恨みや怒りを冷静に見ようとさえしないまま、一生を終える人もたくさんいます。
「やられたらやり返す」
この古いパラダイムから、私たちはそろそろ脱却する時期に来ているのではないでしょうか。このパラダイムを壊し、傷つけ傷つけられるパターンから抜け出す人が増えれば、地球上のあらゆる現象が大きく変わっていくことでしょう。そしてそのためには、私たち一人一人が、強く意思を持ち、変わる決断をし、一個一個アクションを起こしていくしか道はないと思っています。
怒りが生じる時の、もう一つのパターンを挙げます。それは、
「自分の中にある、”こうあるべき”という信念と、相反する言動をとっている人を目にしたとき」
と、
「自分の中にある、”もう手放した方が良い”習性やくせ、価値観を体現している人を目にしたとき」
です。
私たちは、自分の内面を映し出して見せてくれる人を引き寄せることがあります。そういった場合、知らず知らずのうちに、相手に自分自身の姿や価値観を投影させて見てしまいます。そして、その反応として様々な感情が生じるのです。
たとえば、ある人が、「人前に出る時は、きちんとした服装でなければいけない」という信念を持っていたとします。そうした時、その人の目の前に、「人前に出ているのに、とてもだらしない恰好をしている人」が現れたとします。すると、自分が強く信じている”こうあるべき”ルールに従っていないその人に対して、憤りをおぼえます。「どうしてきちんとした格好をしないのだろう」「もっとちゃんとした服を着るべきなのに」といった考えが渦巻き、それに伴った怒りやイライラといったネガティブな感情が生じます。
ちなみにこの時、たとえ同じ信念を抱いていたとしても、「人は人、自分は自分」という許容がきちんとできていれば、さほどネガティブな感情は生まれません。信念自体に自分がどれだけ縛られているか、そして自分とは異なる考えや価値観をどれだけ受け入れられているか、相手の事情を察して慈愛の心で受け止めるゆとりがあるかどうか、という心の状態が関わってきます。
また、ある人が、自分の遅刻癖を何とかしたいと考えているとします。自分の時間にルーズなところが嫌で、直したいと思っています。そうした時、自分と似ている、時間にルーズで遅刻ばかりしている人を目にしたとします。まるで自分の嫌な部分を鏡で映したようなその人の行動をみて、自分をみているかのように感じ、なんとなく嫌な気持ちになったり、その人に対して怒りの感情が芽生えることもあります。
このようにわかりやすい事例もありますが、その人自身もあまり気づいていない、自分の深い部分にある”質”や観念、パターンを他者が映し出していることもあります。そうした場合、その人をみるとなぜこんなにイライラしてしまうのか、一見わからないことが多いです。負の感情から解放されたければ、自分の内面を深く見つめる必要があるのですが、なかなかそうしたところまで踏み込まないまま過ごしている人が大半かと思います。誰だって、自分の内側に深く入っていくことは怖いのです。また、とても大変な作業であることもどこかでわかっているので、なかなかお掃除の第一歩に踏み込めずに躊躇している人も多いかと思います。
このパターンの怒りは、「寛容」「慈愛」「手放し」が鍵となります。どちらかというと、「手放し」に集中した方が良いです。そもそも、心のお掃除がある程度進まない限り、人間が「寛容」「慈愛」の心を持つことは難しいです。だから、仏教の教えでは繰り返し、執着を手放すことを教えているのです。
自分の中にある、不必要な思い込みや価値観、パターンをどんどん手放していくことで、他者に対しても寛容になり、慈愛の心を持つことができるようになっていきます。子供じみた言動をとっている人がいたとしても、かつての自分の姿だと思えば、責めるのではなく、慈愛の気持ちでみることができます。何かに躓いてもがいている人がいたとしても、ああ今この人は何かを学ぼうとしているのだな、と寛容に見守ることができます。
自分の本当の気持ちや思いを封印し、本来望んでいる生き方ではなく、周囲の期待や社会的通念などに合わせた生き方を選んでいる場合。一見周りと調和して、うまくまわっているように見えるかもしれません。けれど、自分自身に嘘をついているので、内面には鬱屈した感情が蓄積されていきます。
そうしたものが溜まっている場合、ふとしたことがきっかけで、その感情が「怒り」となって表に出てくることがあります。よくあるきっかけをいくつか挙げてみます。
1.望み通りの人生を生き、喜びと幸せに満ちて輝いている人をみた時
・・・本当は自分もそのように生きたいのに、そのような生き方を選べていない現状が、羨望や嫉妬、ひいては怒りの感情を生むことがあります。「どうしてあの人だけが」とか、「私ばっかりなぜこのように我慢しなければいけないのか」という不満があったりします。実際のところ、本当はいつでも誰でも望み通りの人生を生き生きと送ることが可能なのですが、自分にはできない、無理だ、と思い込んでしまっているために、”できて”いる人を見るとイライラしてしまうのです。怒りの矛先は、相手だけでなく自分自身にも向けられています。
2.期待を裏切られた時
・・・色々我慢をしているので、思うようにことが進まなかったり、他人の選択が自分の期待とは違うものだったりした場合、受け入れることが難しくなります。根底には、「自分の犠牲に見合った結果を受け取るのは当然」「自分はこんなに我慢しているのだから、相手も我慢をするべき」といった思いがあります。心の声に従って生きていれば、結果にはあまり執着しないものです。
3.感謝・評価をされない時
・・・自分が我慢をし、犠牲を払っている分、どこかで他人からの感謝や評価を期待してしまいます。そこには、「こんなに頑張っている自分、我慢している自分に気づいてもらいたい」という思いがあります。気づいてもらえていない時や、反応がない時、どうして私のこの苦労・苦しみをわ
ってくれないのか、という怒りが沸いてきます。
4.チャンスを取り逃がしている時
・・・そうはいっても、宇宙はいつだって、「あなたの本来の生き方はこっちですよ」というサインを送ってきます。そこに気づいていはいるのだけれど気づかないふりをしたり、無視したり、「今はできない」と先延ばしにしてしまうと、そういった選択をしている自分に怒りが沸いてくることがあります。本質とは違う生き方をしている自分には、常にどこかで違和感を感じるものです。自分のことが好きになれない、肯定することができないという場合、自分という存在を受け入れられないのではなく、その生き方を受け入れることができていなかったりします。
自分の本当の思いに素直に従って生きていれば、他人の状況や、他人からの反応が気にならなくなります。なぜなら、自分と神(Source)との関係性だけが大事だという感覚が強くなるからです。他の人の生き方や自分がどう思われているかなど、本来気にする必要がないのです。もちろん、振り回されない程度に参考にすることは大事かと思いますし、全く周囲に合わせず生きていくことは現実的ではありません。わがままになり過ぎないように注意を払う必要はあると思います。けれど、必要以上に周囲を気にして生きていると、自分の声が聴きづらくなります。答えは外にあるのではなく、内側にあります。内側に意識を向け、内なる声を聴いていれば、間違った方向に導かれることはありません。ここに信頼を置くことができていれば、周りで起こっている出来事や、他人の言動にいちいち感情が大きく揺れ動くことも減っていきます。