断捨離をすることになったきっかけの1つとして、子供の成長もあるような気がします。上が中1、下が小4になり、だいぶ手がかからなくなってきました。基本自分のことは自分でできますし、親といるよりお友達と過ごす方が楽しくなってきています。特に上は部活が忙しいこともあって、中学に入ってから、家にいる時間がめっきりと減りました。家にいる間も、習い事の練習や宿題などで慌ただしく、私とゆっくり話す時間もないくらいです。あんなに私にべったりだった下の子も、最近は周りの目が気になるようで、一緒にお買い物もしたがらなくなりました。学校から帰ると、ランドセルを置いた瞬間外に飛び出し、真っ暗になるまでお友達と遊ぶ毎日です。男の子なので、思春期にでもなれば、私とは口もきかなくなるかもしれません。
子供がこのように、やがて来るであろう本格的な自立に向けて着実に変化を遂げつつあるのだから、私自身も内面で子離れをしていかなければ、釣り合いが取れません。
最初にこのことを受け入れなければいけないことに気づいた時は、やはり寂しさを感じました。子供が少しずつ親を離れていく話は、先輩ママ達からたくさん聞いてきたにもかかわらず、いざ自分のこととなると、何となく認めたくないような気持になっていたのでした。
とはいえ、いくら本音では認めたくないからといって、いつまでも小さな子供のままであるような錯覚を覚えたまま接していたいわけでもないのです。そんなことをすれば、お互いにとって害になります。親のエゴで子供に接してはいけないし、したくありません。その弊害はこれまでたくさんみてきました。
ということは、私が認めるしかないのです。今後、子供が自分からどんどん離れていくことになるという事実を、まずはちゃんと受け入れなければいけないのです。
頭ではこのことを理解してはいましたが、心の底からそれを実行するには、ある程度の時間と、”儀式”が必要でした。
家の2階のクローゼットの中に、子供達が幼稚園で使っていた、カバンやら制服やらをずっとしまっていました。私は今回、これらを一気に処分することにしました。
少し前までは、こうした昔の思い出が詰まった品々に手を付けることができませんでした。眺めていると、あの頃の無邪気だった子供達の姿が浮かんでくるからです。けれど私の中で、何かが変わっていました。心のケリが付いたのです。過去への執着を捨てて、次へ進む。そのように気持ちが切り替わってきたのです。
細々したものも含め、もう使うことはない、子供達の小さい頃のグッズを一気に捨てました。さよならありがとう、と言いながら次々にゴミ袋に入れていきました。過去は過去。物は関係ない。今とこれからのためにスペースを作る。優先させたいのはこっちです。
断捨離がひと段落して、家の中がスッキリと片付いた時、心の中で、ぽっかりと大きな空間ができたような感覚になりました。それまでごちゃごちゃと詰まっていたものが、一気に噴き出してなくなったような感じです。それは意外にも、寂しいとか悲しいとかいう負の感覚ではありませんでした。キレイに空いた分、これからこの中に何かが入ってくる、という、ワクワクするような嬉しさを含んだものでした。
子育ての区切りを迎えているんだな、と思いました。まだ自分1人では生きていけないけれど、親にべったりでもいたくない。そんな時期を子供が迎え、それに対応して親としても接し方や心構えを変えていかなければいけない。寂しい面もあるかもしれないけれど、同時に親自身が新しい生き方をスタートする時期でもあります。これまで全面的に子供にベクトルを向けて過ごしてきた生き方から、少しベクトルの方向性を変えていく。時間や心のゆとりが生まれた分、何か別のことに注力することができます。
求められていることや自分の役割は、少しずつ形を変え、いつまでも同じであるということはありません。その変化を正面から受け止め、自分の役割を理解し、その時にするべき仕事をただやっていけばいいのだなと思います。あらゆる物事は変化していきます。宇宙の真理なのでこれは絶対です。変化に対して柔軟でいることは、相手にとってだけでなく、自分の人生をスムーズに乗りこなしていくためにも、大きな助けとなってくれることだと感じます。
最近、家の中の大がかりな断捨離を決行しました。ずっと気にかかっていたにもかかわらず、時間がないとか何とか自分の中で言い訳をつくって、先延ばしにしていたことです。片づけはそんなに苦手というわけではないですし、家が汚いということでもないのですが、普段使わない奥の部屋は物置のようになっていましたし、クローゼットや押し入れの中に、数年間手つかずのものがいろいろと入っているのが気になっていました。
数か月前くらいから、「一日一個、何かを捨てる」という行動を自分に課し、それを実行してきました。一気に片づけることが難しいとしても、一日一個、必要のないものを捨てるくらいなら、気軽にできると思ったのです。一日一個とはいえ、それを毎日続けていれば、一年間で365個もの不要なものを処分することができます。
そう思って、毎日コツコツと物を捨て続けていました。少しずつ、引き出しや戸棚のスペースが空いていくようになっていきました。やっていくうちに、必要のないものを捨てると、その分だけ心がスッキリすることに気づきました。そのうち、一日一個といわず、一日数個から時には数十個くらいのものを捨てる日が出てきました。
そんなある日、テレビの番組表を見ていたら、断捨離を決行した家族のことを追ったドキュメンタリー番組が目に留まりました。なんとなく今の自分にぴったりのような気がして、録画して見てみました。
断捨離エキスパートの力を借りながら、思い切って断捨離を決行した何組かの家族の姿を、1人1人の心のひだまで丁寧に映し出す、とても良い番組でした。それを見て、断捨離とは、ただ物を捨てるという物理的な作業ではなく、その人の心の中で、何かとけりをつける作業でもあるのだなと思いました。幼い頃の子供との思い出が詰まった本、おばあちゃんから譲り受けた嫁入り布団、家の中で自分の存在を主張する代わりに買い続けた小物たち・・他人から見れば大した価値がないような物でも、そして実際使うことはなくても、その人の心の中では、とても大きな意味を持つ品々。
それらを捨てるという行為は、自分の中で、それらの物を介して視覚化してきた、自分の中の”思い”と決別するということです。捨てられずにいる物たちは、自分の中でまだ手放すことができずにいる、思い入れや古い観念を表しているのです。
断捨離を決行しようという気持ちはあっても、いざ作業を始めると、どの方もある時点で必ず何らかの葛藤に苦しみ、迷い悩む姿が映し出されていました。今まで、物を捨てて家をスッキリさせねばと思っていてもできなかったということは、心の中でそれを決断する勇気が持てなかったということです。その決断を実行する前に、必ず葛藤の時期がどの方にも訪れるのでした。
そこは断捨離のエキスパートの先生、慣れたものです。1人1人の心と向き合いながら、時にはズバリと厳しく現実の状況を指摘し、順を追って断捨離の作業を促していきます。一度その人の中で何かが外れ、心が定まると、断捨離は一気に進みます。この辺りは、私が日ごろから感じている、心のお荷物の外れ方と同じだなと思いました。
とにかく、一度にやろうとしないこと。少しずつ、「今日はここだけ」といったように場所を決め、着々とやっていく。空間を上手く使う。戸棚やクローゼットといった、物をしまう場所は7割だけ使う。服や食器は、「着られるか着られないか」「使うか使わないか」ではなく、「着たいか着たくないか」「使いたいか使いたくないか」で取捨選択する。いろいろなポイントも教わりました。
その中で、私の心にスコーンとヒットしたのが、「捨てるのではなくて、リサイクルではだめなのですか」と質問した人に対しての先生の答えでした。断捨離の先生は、
「もちろん、リサイクルも良いと思います。ただ、今は、リサイクルよりも、とにかく必要のないものを捨てて、心のゆとりをつくることの方が大事です。そういう状態になってから、リサイクルをすればいいんです」
この言葉で私も目が覚めました。私はこれまで、”必要のないものはできるだけリサイクルに出すべき”という観念に縛られていたのでした。そのため、家の中のものを断捨離するとしても、リサイクルに出せるものをきちんと分別しなければいけない、1つ1つ分別するには手間も時間もかかる、そのため取り掛かるのに二の足を踏んでしまう・・といった構図になっていたのです。
リサイクルに縛られなくても良いのであれば、次々にゴミ袋に放り込んでいけばいいだけですから、作業がスイスイ進みます。番組に出ていた断捨離家族の決心にも後押しされて、私は家の断捨離を思い切って進めようという気持ちになっていきました。
まずは、一番気になっていた食器棚から始めました。この中には、結婚する時に母から譲り受けた数々の食器たちが眠っています。文字通り、使われることもなく眠っている食器がたくさんあったのです。私は、せっかく母からもらったものだから、捨ててはいけない、申し訳ない、という思いがどこかにあったのでした。
けれど、母がくれた食器の多くは、母自身も使わないから私にくれたものです。誰かからの頂き物だったり、何かの景品でもらったものだったり、古くてもう使わないものだったり。母にとってあまり魅力がないものは、私の心にもやはり響かないのです。結果、使うこともなく棚の中で眠り続けてきたのでした。
それらの食器と思い切って決別することにしました。リサイクルのことは取りあえず置いといて、次々といらない食器をゴミの袋に入れていきました。一度心が決まったら、作業は驚くほどスムーズに進行しました。
大量に出たゴミの袋を、一度近くのクリーンセンターに運ぶことにしました。夫に車を運転してもらって運んだゴミの量(第一陣)は約120キログラム。燃えないゴミの集積場に、食器の袋を投げ込んだ時に聞こえてきた、「ガッシャーーーン」という食器類の割れる豪快な音を聞いた時、私の中で完全に何かが吹っ切れたのでした。
その日から、今日は二階のクローゼット、今日は和室の押し入れ、今日は本棚、といった感じで、着々と断捨離を進めていきました。何かに後押しされているかのように、エネルギーが湧いてきました。一心不乱に物を捨て続ける妻の姿を見て、それまで受け身の姿勢だった夫も、いそいそと自分の不用品を捨て始めました。娘も何か影響を受けたのか、自分の部屋の片づけをしていました。
物置のようになっていた和室は、お茶でも淹れたくなるようなスペースに変身しました。食器棚が片付いたことでキッチン全体の掃除もしたくなってきました。台所が綺麗になると、料理をするのがより楽しくなってきました。もう読まない本を処分したことで、かえって読書に対するモチベーションが今まで以上にアップしました。衣装棚を整理したことで、ファッションをより楽しめるようになりました。
そして何より、私自身の心が整うようになりました。今までどこかで引っかかっていたものが取れたおかげで、気持ちがスッキリし、思考までがクリアーになって、日常生活の1つ1つを、丁寧に行えるようになったのです。
”捨てられない”は心の問題、と言いますが、身をもってそのことを実感した断捨離体験でした。
息子が今よりも少し小さかった頃、
「日本で一番偉いのは誰?」
と聞いてきたことがありました。私は返答に困りました。「偉い」という概念を、どのように説明したら良いのだろうかと思ったからです。権力がある人が”偉い”のか、人徳がある人が”偉い”のか、大きな事業を成し遂げた人が”偉い”のか・・
誰が偉いかなんて、その人それぞれの価値観で、変わってくることのような気がします。
イエス様はある時、議論をしていた弟子たちに向かって、一体何を評議していたのかと尋ねました。するとお弟子さん達は黙ってしまいます。道々、自分たちの中で誰が一番偉いかということを論じ合っていたのです。するとイエス様は、12人の弟子たちを集め、次のように言います。
『一番上になりたい者は、皆の一番下になりなさい。皆の召使になりなさい』
弟子の1人が尋ねました。
「ではいったい、誰が天の国で一番偉いのですか」
するとイエス様は、1人の子供を呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせ、このように言いました。
『あなた達は生まれ変わって子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子供のように自分を低くするもの、それが天の国では一番えらい人である』
謙虚であること、自分を特別な存在だと思いあがらないこと、他者より秀でることよりに頓着しないこと・・これをイエス様は言いたかったのではないかと思います。これができないうちは、いつまでも神の国に近づくことはできない、つまり、真の心の平安はもたらされない、ということです。
物理的な富や名誉は、究極の心の平穏はもたらしてはくれません。そういったことに執着している間は、手に入れても手に入れても、心が完全に満たされることはなく、虚しさがどこかに残り続けます。真の幸福は、形ではなく、心の状態だからです。
とはいえ、そういったことが何となくはわかっていても、本当に物理的な欲望を捨てきることは至難の業です。富や名誉を手に入れた人こそが勝者であり、富や名誉さえ手に入れば幸せになれると思わせるからくりが、世間には溢れているからです。形あるものをゴールだと無意識的にとらえてしまうのは、今の世の中では自然なことなのかもしれません。
『狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。命に至る門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!』
”狭き門”から入ることを決心し、それを実行することは、多くの葛藤との闘いを意味します。蛇の道に惹かれ、盲目に突き進むことの方が、はるかに簡単です。
〈参考文献〉新約聖書『福音書』塚本虎二訳、岩波文庫
繊細で心が優しい方は、感性が豊かなので、他人をケアする福祉的なお仕事や、芸術的センスを生かすお仕事が向いていたりします。実際、そのようなお仕事に就いている方もいますし、本当はヒーリング系のお仕事や、アーティスティックなお仕事をしたいと望んでいるのだけれど、「どうせ無理」と思っていたり、なんやかんやとできない理由を挙げて自分にストップをかけてしまっている方も多いようです。
もしそれが本当に心(魂)から自分が望むことであれば、やってできないということは絶対にありませんし、宇宙も応援してくれます。実際始めてみると、スイスイと導かれるように進んでいくものです。
けれど、最初の一歩を踏み出すのが難しいのです。今はまだ子供が小さいからとか、お金がないからとか、周りに反対されるからとか、何かと障害を創り出してしまいます。本当の障害は、そういった物理的な事情ではなく、「自分にはできない」と思い込んでしまっている、内面の意識でしかないのですが。制限は、外からやってくるのではなく、内側で創り出しているものです。
そうした制限を知らず知らずのうちに創り出してしまっている背景には、成長過程で身近な大人達に、自分が本当に望むことを制限されてきた経験が大きく影響していたりします。直接的に反対されたわけでなくても、周りの大人達が話す内容や声のトーンなどから、自分の進みたい分野をよく思っていないことを感じ取ったり、自分の感性に気づいてもらえなかったり、自分がいいと思うことを受け入れてもらえなかったりといった経験を重ねるうちに、次第に自分が素直に感じている感覚が信じられなくなり、自信を失っていきます。繊細で心が優しい人は、周りの望みに合わせる習性が身についていることが多いので、何に関しても、自分の本当の望みより、周囲の進める道を優先して選んできたということも多いでしょう。
もうとっくに自立した大人であるにも関わらず、精神的に未だにその呪縛を引きずって、自由に生きられないでいる方は案外多いようです。自分らしく生きられないことほど窮屈なことはないのに、自分の人生はこうなのだから仕方ない、と諦めてしまっているのです。
また、かつて自分が良かれと思ってやったことを誰かに否定された経験や、上手くいかずに失敗した経験などが、未だに意識の深い部分でトラウマとなっていることもあります。本当にやりたいことがあるのだけれど、また否定されたらどうしようとか、失敗したらどうしようといった恐怖心が先立ってしまい、やる前に尻込みしてしまうのです。
見えない制限(何度も言いますが創っているのは自分です)から自由になるためには、まずは自分の意識を変えるしかありません。「私には自由がない」「私には自分が本当にやりたいことができない」「私が望むことは反対される」「どうせやっても失敗する」といったネガティブ意識から、「私にできないことはない」「私には、私らしく人生を創造していく力がある」「私のもとにたくさんのサポートがやってきて、スムーズに事が進んでいく」という前向きな意識に塗り替えていかなければいけません。
自分の人生を創り出しているのは自分自身でしかないこと、現状を変えたかったら自分が変わるしかないこと、周り(親も含む)は関係ないということ、本当は制限など存在していないこと。これらを知り、過去の自分から切り離して、新しい自分になると心を決めることが大事です。そして何より、望む人生を創り出す許可を自分で自分に与えなければいけません。「周りに反対されるから」というのは言い訳で、本当のところは、自分が自分にゴーサインを出していないだけなのです。自分の中で心が定まっているのなら、そしてそれが進むべき道なら、周りが賛成しようが反対しようが関係ありません。
「私には受け取る価値がない」という思いが強ければ、欠乏がやってきます。チャンスは無限にあふれていますが、受け取る体制が整っていなければやってきません。「私は両手を広げてギフトを受け取ります」という心の状態でいることが、実際に受け取るための必要条件になります。
心のお掃除をして、長年の垢が落ちてくると、人間関係もどんどんシンプルになっていきます。さほど気持ちが通じ合っているわけでもないのに腐れ縁のような関係を保っていた人や、本当は縁を切りたいけれど思い切った行動がとれずにぐずぐずと付き合っている人、一緒にいて盛り上がらないんだけれど何かを失うのが怖くてお付き合いを続けている人、など、自分の本当の気持ちに嘘をつきながら付き合っている関係にピリオドが打たれることが増えてきます。
だんだん連絡が疎遠になっていき、気づいたら会うことがなくなってく場合もありますし、何か決定的な出来事が起こることもあります(もしかしたら、こちらの方が多いかもしれません)。それは一見ネガティブな出来事のように思われるかもしれませんが、しばらく経ってからその時のことを眺めてみると、ああいうことがあったから、無理してお付き合いをしていたことに気づけたんだな、とありがたく感じるものです。
心のお荷物が減っていくことで起こりうる、人間関係における大きな変化は、共依存の関係がなくなっていくことです。人はしばしば、自分に欠けている(と思っている)部分を誰か他の人に補ってもらうために、その欠けている部分とうまく共鳴して近づいてくる人と関係を結ぶことがあります。
自分が「足りていない」「できない」「愛されていない」存在であるという思いが減っていき、反対に「私は足りている」「私にはできる」「私は愛されている」と感じることが増えていけば、自分の満ち足りていない部分を誰かに補ってもらう必要がなくなり、そのためだけに引き合っていた他人との関係性が終わることになるのです。
どんな関係性にしろ、誰かと別れる時には結構エネルギーを使いますし、けんか別れなどした暁には、しばらくは後味の悪い思いをするものです。もしかしたら、相手の方に分かれる準備ができていない場合、その人はあらゆる手段を使って、関係性を保とうとしてくるかもしれません。
けれど、波長が合わないもの同士はどうがんばったって合わないのです。これはもう宇宙の法則で逆らえないのですから、あれこれ考えるのはやめて、手放してしまった方がいいです。自然の流れで、ことが進んでいくはずです。相手に悪いとか、自分はひどい人間だなどと思わなくて大丈夫です。そもそも共依存の関係性を続けていくことは、自分だけでなく相手にとっても、成長を妨げる行為なのですから。
身の回りがシンプルになったら、同じ波長のものは引き寄せ合うという法則に従って、自分にとって本当に必要な情報や人だけが引き寄せられるようになっていきます。ある日いきなりそうなるというのではなくて、心のお掃除が進んでいく過程で少しずつ、そうなっていきます。
しばらく前にオーダーした、アンジェリックエッセンスの「カスタムエッセンス」。こちらは、世界に二つとない受注生産のエッセンスで、注文した方にとって必要なエネルギーが入っています。
アンジェリックエッセンスは、そもそもどのエッセンスでもそうなのですが、飲む人、飲むタイミング、飲んだ時の状況などによって、”効果”の表れ方が異なります。ですから、「このエッセンスを飲むと、こんな変化が起こります」といった具体的な説明が難しいのです。
カスタムエッセンスは特に、ボトルにどんなバイブレーションが転写されているのか前もって教えてもらえるわけではないので、もう飲んでからのお楽しみとしか言いようがありません。
私はかれこれ、自分用に作ってもらったカスタムエッセンスを数回ほど飲んでいますが(その都度トリートメントボトルに希釈して飲んでいます)、その度毎に異なる反応があり、これはひょっとしてボトルの中のバイブレーションはどんどんアップデートされているのではないかとさえ思います。
ただ共通しているのは、何となく、飲んでいると「自分に戻れる」感覚があるということです。何かに追われるような毎日を過ごしている時、こうしなきゃ、ああしなきゃと強迫観念的になっている時、目標を達成しようと頑張るあまり少々無理してしまっている時など、優しいけれど大きな強い力で、グイっと「私らしくある」という状態に引き戻してもらえる感じです。
自分以外の誰かのようにならなくてもいい、自由なやり方があっていい、どんなタイミングでもいい、焦らなくてもいい、評価を気にしなくてもいい、やりたいようにやればいい、・・・
そんな風に自然と思えるようになります。周囲と比較してしまったり、こうあるべき、こうしなければいけない、と画一的な基準に縛られがちな心を溶かしてくれます。どこかではそれでいいんだとわかっているのだけれど、表面的な事象に信念がブレそうになる時があります。そんな時にカスタムエッセンスを飲むと、「これでいいんだ」という自信を取り戻すことができるのです。
そもそも世の中には正解も不正解もないのだから、どんなやり方であれ、どんな状況であれ、自分さえ納得できていればそれでOKなのではないかと思います。ただ、確固たる信念をキープするのが難しいのです。世の中の常識、何となくみんながそうあるべきだと考えているラインに合わせるのがよしとされる風潮が圧倒的に強いからです。周囲に合わせるのではなく、自らの信念に付き従っていく生き方を選ぶためには、相当強い意志と勇気、恐れない心が必要です。
フラワー(アンジェリック)エッセンスは、その人がその人らしく生きるのを手助けしてくれるものですから、飲んでいると、様々な呪縛や不安が取り去られていきます。多くの場合、誰かの行く手を阻んでいるものは、現実に存在している妨害要素というよりも、その人の心の中に潜んでいる不安や恐れであることが多いものです。実際にその人を物理的に止めている人や状況があるわけではないのに、心の中で障害を創り出し、それがあるために自分は動けないのだと自分を納得させていたりします。
そんな空想上の妨害要素を消していくためにも、エッセンスは大きな力となってくれます。もちろん、少しずつ自分の力で行動を起こしていくことによって、その行動が自信となり、不安が小さくなっていくこともあります。いづれにしても、原動力となるのはその人の意思と信念の力であることには変わらないと思います。
娘が中学生になってもう半年以上経ちました。授業や部活、友達との付き合いなど、終わってしまったこちらからしてみれば、青春真っ盛りが眩しく見えるのですが、渦中にいる本人にとっては、何かと悩むこともあるようです。
成績をひけらかす人、行事に真剣に取り組んでくれない人、生徒に対して威圧的な態度をとる先生など、「いたなあ、私の時にも・・」と聞きながら思い出がフラッシュバックしてきます。状況は違えど、人間関係が悩みの比重として一番大きいということは、大人も子供も変わりはないようです。
私は周囲にそういった悶々とした悩みを話せる大人がいなかったので、 大概、内にこもって本や空想の世界に逃げ込んでいました。
娘は今の所はまだ私に話してくれるのですが、その時には決して上から目線にならないように、最初はただひたすら聞き役に徹するようにしています。子供でも大人でも、まず最初は自分の気持ちを聞いてもらいたいものです。気持ちを洗いざらい吐き出せば、スッキリして、思考もクリアーになり、自分の今の状況を客観的に眺めるゆとりができます。
そうして落ち着いたら、アドバイスというか、「こんな考え方をしてみたら?」といった、別の視点からの物の見方をちょっと教えてあげます。例えば、いつも威張っている人がいたとしたら、「どうしてその人はそのようなことをしているんだろうね」と聞きます。その人のとっている言動そのものではなく、その言動を引き起こしている要因に目を向けるためです。その人がとっている行動や、その人の口から出ている言葉というのは、その人の心の状態の表れです。
威張っているということは、自分を大きく見せたい、自分という存在を認めてほしい、という思いがあるからです。そしてそのような願望があるということは、裏を返せば心の奥底では、自分は「認められていない」と感じているのです。頑張って大きく見せて、自分の実力以上のものになろうとしてやっと、自分という存在が価値あるものになれるような気がしているのです。今の自分に満足できておらず、不満なわけです。そして、何とかして他人に自分の言うことを聞かせたいと思います。自分が正しい、間違っていないということを、他人をねじ伏せることで納得させたいのです。
「他人に対して威張る」という言動の裏には、そんな心の状態が伺えます。そういう話をしていると、娘も次第にその人を責める気持ちがなくなっていくようです。周囲に威張ることで、目に見える形で自分を承認してもらいたいのだ、という陰の願望がわかってくると、その人の心の苦しみが理解できてきます。心が満たされていないために、他人を巻き込んでその苦しみを埋めようとしているわけです。悲しい、つらい、やりきれない思いが根底にあるのです。そこに気づくと、ただ威張っている嫌な人、という見方が変わってきます。
威圧的な態度、理不尽な態度で生徒に接する先生も同じです。満たされない心を、自分1人で解決できるゆとりがないから、自分より弱い立場の人間を使って、何とかバランスをとろうとしているのです。
私は、「先生だから」とか「大人だから」という理由で、理不尽な態度が許されるとは思いませんし、そのために弱い立場の人間が傷つく必要もないと思います。とはいえ、学校という状況では、一生徒が先生に面と向かって立ち向かっていくことは難しいでしょうし、いろんな支障が出てきます。
だから娘には、「その人を変えようとするのではなくて、今の状況を理解して受け入れられるように自分が変わればいい」と言っています。他人を変えることはできなくても、自分を変えることはできます。その人がなぜそのようなことをしているのか、今目に見えている状況から一歩深い視点で眺めるようにします。否定するのではなくて、理解して受け入れようとします。そして何より、このことが自分にとってどんなレッスンになっているのか、自分にどんなことを教えてくれているのか、謙虚に受け止めます。自分が見ていることは、自分の心の表れです。特に怒りの矛先が他人に向かっている時はその視点から離れがちですが、最終的には、ベクトルを自分に向けることで、本当の意味での解決になっていきます。
フラワーエッセンスを使っていると、自分の中の「感情」に客観的に向き合えるようになっていきます。
以前は、感情というものは、どこからか自然発生的に湧いてくるもので、コントロール不可能だと思っていました。ある時は嵐のように荒れ狂い、ある時はしつこく付きまとい、ある時は出てきたかと思ったらすぐに消えてしまい・・自分で制御することなんてできないと思っていたので、感情に自分を乗っ取られたり、感情に押しつぶされそうになったり、感情が優位になって冷静さを保てなかったり、ということがしょっちゅうでした。
感情というものは、思考とセットになっています。自分の中で「思考」が生じ、その思考と現実を照らし合わせた時(これは日常無意識に行っています)、その思考の種類と自分が目にしている現実とが反応して、感情が生まれます。
では思考はどうやって生じるかというと、これまでの人生経験や、身に着けた習慣、常識、刷り込まれた価値観、期待、動物的本能、等々に基づいて生じています。思考に反応して感情が出てきているので、感情に自分を乗っ取られそうになったら、それとセットになっている思考に目を向けます。
そもそもなぜこの感情が生まれてきたのか、元になっている思考を探り、さらにその思考の元となっている固定観念や自分の「思い」に注目するようにすれば、感情の大元の出処を突き止めることができます。そして、その大元を癒します。それが一番手っ取り早い、感情に支配されない方法です。
こうしたことが理屈で理解できるようになったのも、フラワーエッセンスを飲み始めてからです。自分の中に感情が湧き起こってきた時、それまではただなすがまま、感情が自分の中で好き勝手に大きくなったり小さくなったりして動き回るのを、野放しにしていました。けれど最近はもう感情に自分を乗っ取られることも、感情が抑えられなくて爆発してしまうこともほとんどなくなりました。感情を客観的に眺められるようになったので、感情に支配されなくなったのです。
人の念や場所のエネルギーに敏感な方は、人混みや集団生活に大きなストレスを感じることが多いと思います。他人の感情や思いを、自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまうからです。こう言うと、まるで周囲のエネルギーが自分に向かって襲い掛かってくるかのようにとらえてしまうかもしれません。けれど、そもそも自分の中に「ある」ものにしか、外の世界のものは反応しません。ネガティブな人がすぐ近くにいたとしても、自分の中にその人と同じ要素がなければ、そしてその人に対して自分が何のジャッジもしなければ、その人のネガティブエネルギーは自分の中にそう簡単には入ってこれません。そもそも、その人が「ネガティブ」であると自分で意味づけを行っているから、その人が自分にとってネガティブな存在になっているわけです。そして、そんな自分の思いと、その人のバイブレーションが共鳴し、エネルギーの交換が起こります。
いちいちジャッジをしたり、様々な固定観念に縛られていると、それだけ他人と接した時に悪しき感情が生まれますから、ストレスや衝突も多くなります。そんな人は、他人を責めてばかりで、解決の糸口が自分の中にあることには気づいていないかもしれません。
意味づけするのをやめればいいのです。固定観念を手放せばいいのです。非難することを徹底的にやめてみればいいのです。善悪二元論で物事をとらえているうちは、他者をそのまま受け入れることは絶対にできません。
意味づけ、ジャッジをしないようにするのは、ハードな修行です。もはや訓練あるのみです。これまでの人生で散々定義づけを行ってきたわけですから、一か月やそこらでは自分の中の思い込みをクリアーにするのは到底無理です。ライフワークだと思って、時間がかかることを覚悟した方が良いかと思います。
全ての殻を一気に破ろうとすると、現実でも極端な事象が起こりがちです。どちらを選ぶかは人それぞれですが、大きな事故や病気などを経験することがなくても、人は努力次第で、意識の変革を大胆に行っていけるものだと思っています。
自分が毎瞬毎瞬抱く思考を改めて見つめてみると、いかに多くのネガティブな思考を宇宙空間に向かって放っているのか気づき、驚きます。そして同時に恐ろしくなります。自分が放った思考が様々な事象を引き寄せ、現実を創っているからです。
たとえボーっと外を眺めている時間であっても、待ちゆく人々をただ見つめているだけの時でも、自分がどれほどのジャッジ(判断)を行い、好きか嫌いかで対象物を評価し、個人的な価値観にそぐわない現実を非難しているか。少し客観的になってみただけでも、驚くほど膨大な頻度で、自然に行っていることに気づくはずです。
今の文明社会は、批判精神がベースになっています。物心ついた時から、ルールや価値観に縛られて物事を判断する精神構造が自然に出来上がっていくのが普通です。多くは、その状態を疑うことすらしません。
特定の価値観に基づいた見方をし続けている限り、その対象物をジャッジする作業からは逃れられないので、ネガティブなエネルギーを自ら作り出す無限ループからも逃れることができません。ジャッジをするということは、「良い」か「悪い」かを選ぶ作業だからです。必然的に、「悪い」、つまり自分の抱く価値観にそぐわないと評価した対象物に対しては、悪しき感情や思考を抱くことになります。
けれど人はなかなか自分自身の内側に目を向けようとしません。物事の原因は、外にあると思いたいからです。自分が直面している現実、自分が受け入れられないでいる状況、悩み、苦しみの大元の発生源が自分であるなんて、認めたくないものです。認めたくないので、自分の内側を見ようとせず、外ばかりに目を向け、他人を責め、環境を責め、社会を責めます。
自分がいかに特定の価値観や信念に縛られて生きているか、客観的に知る方法があります。それは、自分が見る夢に注意を向けることです。夢というのは、その人の内面世界を視覚的に見せてくれる世界です。例えば、仕事でストレスを抱えていたり、締め切りに追われているような状況の時、誰かに追いかけられる夢を見たりすることがあります。また、自分の意思を犠牲にして他人に迎合しているような人が、手足を縛られ動けずにもがいている悪夢にうなされたりします。
私はかつて、もうとっくの昔に卒業している学校で、その当時私に辛くあたっていた先生に向かって、大人になった自分が罵詈雑言を浴びせている夢を見たことがあります。その夢を見るまで、自分はその先生のことをすっかり忘れられたと思っていたのですが、実は本当に赦すことはできていなかったのだということを知りました。
普段、夢というのはあまり意識しないものかもしれません。朝起きると何となくぼんやりとは覚えているのだけれど、そのままいつの間にか忘れていき、2、3日もたてば大抵の夢の内容などすっかり記憶から消えていくでしょう。
けれど、一度自分が見る夢に注意を向けるようになると、不思議なことに、夢の記憶がだんだん鮮明になっていきます。自分が昨日見た夢の内容が、今までよりも明確な残像で、自分に訴えかけてくるようになります。そして、その夢からのメッセージに気づけるようになります。夢が、私が抱えている心のお荷物の存在を教えてくれるのです。どんな価値観や信念に縛られているのかということに、気づかせてくれます。
そして、夢が教えてくれた”縛り”に気づき、それを解放しようと心に決め、お掃除を繰り返していくと、だんだん見る夢の内容が変わっていきます。それは、自分の放つ思考が変わっていく過程とリンクしています。悪夢を見る回数が減っていき、夢がますますメッセージ性を帯びるようになってきます。
フラワーエッセンスにも、いくつか夢見を助けてくれるものがありますので、夢のワークに挑戦してみたい方は、そんなエッセンスの力を借りてみるのも良いかもしれません。
フラワーエッセンスのプラクティショナーとして活動を続けているうちに、私は多くのクライアントさんの中に、次のような”思い”があることに気づきました。それは、
「フラワーエッセンスの助けを借りたいのだけれど、フラワーエッセンスの力にずっと依存していたくない」
という思いです。頼りたいんだけれど、頼り過ぎたくはない、という感じです。
エッセンスに頼り過ぎたくない、と考えるのは、自分が感情的に苦しい時、スッとその苦しみを取り除いてくれたり、マイナスエネルギーに引っ張られている時、それをポジティブに引き上げてくれる力が強いことを知っているからこそ、エッセンスなしではやっていけない、という状態になることを恐れているのかもしれません。
私自身は、フラワーエッセンスを常時摂ることについては特に「依存」とはとらえていません。エッセンスは決して依存性のあるものではないからです。むしろ、エッセンスに対して執着が出始めたりすると、その状態に気づかせ、バランスの取れた状態に引き戻されます。エッセンスは、常に自分を落ち着いた状態に保ってくれ、また、より高い所に導いてくれる頼もしい味方だと思っています。
これまで何度もエッセンスに心の苦しみを救ってもらいましたし、また引き上げてもらいました(これからもそうだろうと思います)。けれど、根底にあるのは、私自身の「自分は変わる」「余計なお荷物を捨てて自由になる」という強い意志であり、エッセンスはその意志を助けてくれているに過ぎない、とも思っています。エッセンスの恩恵を受けている他の方々も同じだろうと思います。もし、その方の芯の部分に、「変わりたい」「良くなりたい」という思いがなければ、エッセンスとの出会いさえ起こっていないはずです。もしくは、たとえ何リットルものエッセンスを飲んだとしても、望んでいるような変化は起こらないでしょう。
その方が心の奥底から決心した時、物事は動き出します。自分の元にやってくる人や物やツールは、意志のエネルギーに付随してやってきたに過ぎません。人によって気づきのきっかけや、助けてくれる媒体は様々です。その方なりに、ユニークな形で自己変革を創造しているのです。
ツールはあくまでツールでしかなく、自分をサポートしてくれるもの以上にはなり得ません。自分が何か(物でも人でも)に支配されていると感じているなら、自分が自分の意思でその環境を創り出しているという現実から目を逸らしていることになります。何かに依存したり、頼らずにはいられない状態というのは、自分が自分の意思の力で変化を起こしていることを信じられていないということです。自分以外の誰かや、何かがそうさせていると思いたいのです。
そういうわけで、もし目の前にエッセンスがあり、その助けを借りたいと望むのであれば、それは自分のコアの部分で希求した結果、あなたを助けるためにやってきたわけですから、自分の現実創造の力に感謝をして、躊躇することなく利用すればいいと思います。
もし、もうエッセンスの力に頼らなくても大丈夫、自分には必要ない、と思えるようになったら、その時はエッセンスのお役御免ということです。またいつか使いたくなる時が来るかもしれませんが、とりあえず今はなくてもやっていける状態になったということです。そういう時は、自然にエッセンスに手が伸びなくなったりします。
いずれにしても、エッセンスでも何でも、自分が「それ」を今必要としているのかいないのかは、自分自身がちゃんとわかっているので、やめられなくなったらどうしようなどという心配は、杞憂なので大丈夫です。
前回のブログに書いた魔法の言葉4つは、”他人”に対してだけでなく、”自分”に対して使う時にも、大きな威力を発揮します。
特に心優しく慈愛の念が強い方に多いのですが、愛が自分以外の対象物にばかり向いてしまい、自分自身を愛することがおろそかになってしまっている場合があります。
〇幼い頃、傷つき体験を数多く経験している
〇人の感情に敏感過ぎて周囲との境界線が曖昧になり、いつの間にか他者の痛みを自分の痛みのように感じることが普通になってしまった。そして他者の痛みや苦しみの責任が自分にあるかのような錯覚を覚えることが多かった
〇他者の痛みや感情に過敏に反応し過ぎるあまり、何事も「自分」を軸に物事を考えるのではなくて、「他人」軸に合わせて選択することが自然になっていった。それは時としてトラブルを避けるためだったり、自分を守るために致し方ない状況にいたからでもあった
〇世の中で苦しんでいる人や悲しんでいる人がいる事実を目にすると、自分が楽しんだり幸せになることに罪悪感を感じてしまう
〇自分は幸せになってはいけない、幸せになる価値がない、幸せになるはずがないと心のどこかで思っている
〇自分が自分の気持ちに正直になり、「幸せ」になると、誰かを傷つけてしまうような気がする
〇人生で受ける恩恵は、他人に尽くした分だけが自分に返ってくると思っている
〇我慢は美徳だと思っている
〇今の悩みや苦しみは、過去の自分が犯した「罪」の代償だと考えている
・・・以上の項目に心当たりがある方は、知らず知らずのうちに、自分を責め、過去を悔やみ、将来を悲観する癖がついてしまっているかもしれません。繊細で敏感で心優しいタイプの方は、周囲のネガティビティに過剰に反応し、それを自分のエネルギーフィールドに取り込んでしまうということを、物心ついた時から自然にやってきていることが多いです(特に幼少期から青年期にかけて、バリアーがきちんと築けていなかった時代に取り込んでしまったものに、未だに影響を受けていたりする)。
次第に自分の中で膨らんでいった罪の意識や恐れ、怒りなどを、大人になってからも手放すことができずにいると、自分の内面で大量のネガティビティをため込んだ状態になっていきます。そして、周囲や他人との関係性を築く途上で、自分の内面にあるネガティビティがいちいち反応し、悪しき感情が生まれ、ネガティブな思考に圧倒されて苦しむことになります。
自分が苦しい時、つい他人や周囲の環境を責めたくなりますが、自分の身に起こっていることの原因は、外側にはありません。他人の言動に反応しているとしたら、その要素が自分の中にあるためです。
自分が本当の意味で自由になり、心が解放されたいと望むのであれば、まずは私が私自身を愛してあげなければいけません。私を赦してあげなければいけません。愛と赦し、これが人生の最大の課題です。他人にはできるけど、自分に対してはできない、では中途半端な状態で終わってしまいます。そもそも、全体が幸せになるためには、まずは1人1人が自分自身を愛していなければ始まらないのです。
"I love you"
"I'm sorry"
"Please forgive me"
"Thank you"
この4つの言葉は、ただお題目のように唱えているだけでも、潜在意識を浄化してくれる力があります。長い間自分の中に抱き続けてきた「思い」こそが、自分の人生を花開かせる最大のブロックになっています。ブロックを外すためには、一つ一つ、心の中に巣くっている「思い」を取り外していくしかありません。言葉の力を使って、固定観念を緩め、解放させていきましょう。
"I love you"
私は私を愛しています。私のあるがままを全て受け入れています。私は私が幸せになることを心から望んでいます。私は私の過去に起こった全てのことを受け入れます。何も「間違って」などいなかったことを認めます。私は何も「間違った」ことはしていませんし、私以外の誰も、「間違った」ことなど何一つしていません。「間違っている」ことなどこの世に1つも存在していません。
私はこのことを受け入れ、認めます。
"I'm sorry"
ごめんなさい。私は今まで、自分を否定し、傷つけ、価値のない存在だと思い込んできました。ごめんなさい。私は私が幸せになるための道を自分自身で閉ざしてきました。ごめんなさい。魂の導きに従う心の声を無視してきました。ごめんなさい。自分の可能性を信じることができませんでした。ごめんなさい。自分の身に起こったことを全て他人や環境のせいにしてきました。ごめんなさい。私の人生の舵を握っているのは私自身だということに長い間気づかずにいました。ごめんなさい。
私は今、このことを私自身に謝ります。
"Please forgive me"
ゆるしてください。私が今まで私に対してしてきたことをゆるしてください。私に向かって浴びせた言葉を、思いを、行動を、ゆるしてください。私の価値を落とす全ての思い込みをゆるしてください。私を縛り付け、苦しめ、停滞させてきたネガティブな観念をゆるしてください。幸せになっても良いと、長い間自分に許可できなかったことを、ゆるしてください。
"Thank you"
ありがとうございます。私が今、このことに気づけたことに感謝します。私が私を愛しても良いのだと思える段階にきたことに感謝します。これまで私の身に起こった全てのレッスンに感謝します。私の運命と、私の強さと、 私に与えられた全てに感謝します。私をここまで導いて来てくれた全ての存在に感謝します。
フラワーエッセンスには、様々なネガティブな感情を癒す力があります。怒り、悲しみ、恐怖、絶望、妬み、etc...
それらの感情が湧いてきた時に適切なエッセンスを飲むと、スーッと感情が治まり、どこかに去っていきます。本当にありがたいツールなのですが、そうはいっても常にあらゆる感情に対応するエッセンスを持ち歩くわけにはいきませんし、そもそも感情など湧いては消え、湧いては消え、と目まぐるしく生じ続けるものです。
感情、特にネガティブな感情に振り回されたくなければ、そもそもなぜそれらの感情が湧いてくるのか、その源泉、つまり感情が生じている根本原因にメスを入れなければいけません。感情は、その人の心の中にある何かしらの定義づけであったり、思い込みであったり、「こうあるべき」という理念などが、現実に目にしている事実と反応することで生じています。それらの固定観念と現実を照らし合わせた時、その現実が「良い」のかそれとも「悪い」のか、無意識にジャッジしているのです。ジャッジすることがなければ、感情はさほど湧いてきません。湧いてきたとしても、その規模は煩わされることはない程度にとどまるでしょう。
試しに、外を歩いている時、自分がどれだけの物事をジャッジしているか、少し意識的になってみてください。本当に驚くほどやっていると思います。向こうから歩いてくる人を見た時に、その人をどのように見ていますか。暗い顔をしている(嫌なことでもあったのかしら)、脚を引きずっている(事故にでも遭ったのだろうか)、子供をたくさん連れている(大変そう)、派手な色の服を着ている(私ならあんな服は着ないわ)、酔っぱらっている(節度がないのね)、・・・
表に出ている事実以上に、どれほどの個人的な価値観でその人を判断していることか。そして、自分の価値観に照らし合わせて、「こうすればいいのに」「なんでこうしないんだろう」と、その人の個人的な領域にまで踏み込んだ余計なおせっかいまでやいてしまいます。もしかしたら、自分がジャッジしているという認識すらないかもしれません。そのくらい、ごく自然に、物心ついた時から行ってきているものなのです。
ジャッジすることで、「こうあるべき」と自分が考えている事実と異なる事実を目にした時、その都度、嫌な感情に苛まされることになります。なぜなら、私が考える「こうあるべき」姿ではないから。「こうあるべき」なのに、「こうあるべき」ではないから、つまりそれは「良くない」ことになるわけです。あの人の言葉遣いも、あの人の行動も、趣味趣向も、服装も、考え方も、どれもこれも、私が考える「こうあるべき」と違う。だから許せない。本当は「こうあるべき」なのに。怒りが湧いてきます、悲しみが湧いてきます、変えたいのに変えられないことで絶望感も湧いてきます。
このように、自分の中で頑なに特定の価値観や定義を抱き、そこに縛られていると、周囲を見た時に自然とジャッジすることになり、それによって生じるネガティブな感情に自分自身が苦しみ続けることになります。その時、原因は自分の中にあるのに、周りや他人にあると思っています。周りがこうだから、自分がこうなっている、と考えています。
悪しき感情に苦しみたくなかったら、自分が心の中に抱いている、自分を縛っている信念を手放せばいいのです。「こうあるべき」という固定観念から、自分を解放してあげれば良いのです。周りや他人は関係ありません。私が変わればいいのです。私が変えることができるのは、私だけです。
具体的に、どうやったら固定観念や思い込みを手放すことができるのでしょうか。私が一番お勧めする強力なツールは、言霊です。古代からハワイに伝わるホ・オポノポノという考え方に、「自分の目の前で起こっていることは、100%自分に責任がある」というものがあります。自分の思いが、現実を創っているのです。ホ・オポノポノの提唱者が勧める、有名な4つの言葉があります。
「愛しています」
「ごめんなさい」
「ゆるしてください」
「ありがとう」
これらの言葉には、潜在意識を浄化する力があるといわれています。実際、自分がついジャッジしそうになった時、この4つの言葉を言うことで、スッと囚われから解放される感覚があります。心の中で唱えるだけでも効果があります。ちなみに私の場合、なぜかはわかりませんが、日本語で言うよりも英語で唱えた方が力強さを感じます。
"I love you"
"I'm sorry"
"Please forgive me"
"Thank you"
誰かを見た時、その振る舞いに対してジャッジしそうになったらすぐさま、この魔法の言葉をひたすら唱え続けます。"I love you", "I'm sorry","Please forgive me", "Thank you", "I love you", "I'm sorry","Please forgive me", "Thank you", ...
"I love you",
何はともあれ、あなたのことを愛しています、認めています、受け入れています、あなたがどんな状態であれ、あなたを愛しています、あなたがどんな言動をとっていようが、あなたを愛しています
"I'm sorry",
ごめんなさい、あなたのことをジャッジしようとしました、ごめんなさい、あなたが〇〇であると判断しました、あなたは△△だからこうなっているのだと決めつけようとしました、ごめんなさい、こうあるべきだと考えました、ごめんなさい、あなたの選択を否定しようとしました、ごめんさい、私が正しいと思ってしまいました、ごめんなさい、私の価値観と異なるあなたの価値観を、あなたの選択を間違っていると思ってしまいました、ごめんなさい、あなたの行動を責めてしまいました、ごめんなさい、あなたの有り様を、あなたの人生を、そのまま受け入れられなくてごめんなさい
"Please forgive me",
あなたをジャッジした私を許してください、あなたが間違っていると考えた私を許してください、あなたがこうするべきだと考えた私を許してください、あなたがしたことを責めた私を許してください、あなたを受け入れられなかった私を許してください
"Thank you",
ありがとう、私に気づかせてくれてありがとう、教えてくれてありがとう、大切なレッスンを与えてくれてありがとう、成長する機会を与えてくれてありがとう、出会えたことに感謝します、気づけたことに感謝します、お互いの存在に感謝します、あなたがいてくれたことに感謝します、この経験を与えてくれた大いなる存在に感謝します
言葉はエネルギーですから、続けていけば、物心ついた時から長いことジャッジすることに慣れてきた、癖を矯正していくことができます。潜在意識をクリーニングしていくことができます。思い込みや固定観念に縛られて苦しむことが減っていきます。
アンジェリックエッセンスの中には、時々「?」と思うような不思議なエッセンスがあります。中でも私が最も「?」と思うエッセンスは、「Next Level」(ネクスト・レベル)。”次の段階”といった意味ですが、一体何のことを言っているのでしょう。
解説は、次のようなものです↓
「とても高いバイブレーションのエッセンス。次の段階の意識や存在のエネルギーのようです。現存するエネルギーより高いエネルギーで、私たちがより高次の意識とバイブレーションへ進化することを助けてくれます。私(ルース)がこのエッセンスを初めてつくって試したところ、エネルギーに満たされ充電されました。エネルギーを見たり感じたりする私の能力が高められたようです。このエッセンスは、その人のバイブレーションを引き上げるのにぴったりです。」
~㈱ネイチャーワールドHPより抜粋
解説にも、「・・・のようです」とあるように、作り手のルースさん自身にとっても、ちょっと「?」なのでしょうか。
アンジェリックエッセンスは、摂る人によって変化の表れ方も様々で、一概に「これを飲めばこうなります」と断言できない部分があります。とても波動の高いエネルギーが入っていることは確かなのですが、バイブレーションが精妙過ぎて、今現在私たちが感知できるレベルではないのかもしれません。
かといって、飲んだから何の変化も感じないかと言うとそういうわけではなく、不思議なことに、しばらく飲んでいると、「あ、これはあのエッセンスが効いているんだな」という感覚を味わうことができます。複数のエッセンスをブレンドして飲んでいる時でも、その中の何が効いているのかが、どういうわけか「わかる」のです。これは私に限ったことではなく、飲んで頂いているお客様も、大体皆さん同じようです。
この「Next Level」は、アンジェリックの中でも特に、人によって変化の表れ方が異なるような気がします。しかも、同じ人でも飲む時によって変化が違います。私はこれまでこのエッセンスを複数回飲んできましたが、その都度違うことが起こります(内面での話ですが)。いずれの場合も、解説にあるように、私が「次の段階」へと引き上げられるのを感じます。大きな気づきがあったり、今までどうやっても取れなかった心の重荷が急に取れてスッキリしたり、意識のレベルが一段階グンと持ち上げられるような感じです。個人的に、このエッセンスを飲む時、「Grace」と一緒に飲むのがお気に入りです。とても暖かな、力強いバイブレーションに守られます。
とにかくアンジェリックはよくわからない部分が多いのですが、わからないからこそ興味が惹かれます。
ちなみにここ最近は、「Balance of Dark」を飲んでいたのですが、これを飲んでいた時に図書館に行ったら、ある本がポンと目に飛び込んできました。開架書庫をブラブラ歩いている時、その本だけが、何か特別なバイブレーションを放っているのを感じたのです。近づいてタイトルを見てみると、ルドルフ・シュタイナーの「悪について」。この本の中に、私が知りたいと思っていたことが書かれているのだなとすぐにわかりました。
エッセンスを飲んでいると、こういうことがよく起こります。シンクロニシティを引き寄せるのだろうと思います。その人の成長を、後押ししてくれているようです。
アンジェリックエッセンスには、私達の認識を根本から揺り動かしてくれるような、とてもディープな部分に働きかけてくれるものがいろいろあります。
例えば、「Balance of Dark」(バランスオブダーク)というエッセンス。”闇”のバランスをとる、といったエネルギーです。
解説は次のようなものです↓
『闇のバランス。本当はこの世に「闇」など存在せずただ意識が欠如しているだけです。このエッセンスは、怖れ、貪欲、暴力など二極性のネガティブな側面として認識されているものを見つめ、すべてのものに光が宿っているのだという新しい気づきをもたらしてくれます。そしてネガティブな要素をバランスと調和の中に戻してゆきます。新たなものや事柄、未来のエネルギーに取り組む際に重要な役割をしてくれるエッセンスです。また、無自覚だったことや知らなかったことに認識をもたらし、私たちが「闇」と呼ぶ側面に内なる安らかさと理解をもたらしてくれます。』
~㈱ネイチャーワールドHPより抜粋
私達は、物心ついた時から周囲や環境の影響を受け、知らず知らずのうちに、様々な偏見や思い込みを抱いていきます。そのため、何か出来事が起こった時や、他人を見た時、または自分がとる言動一つ一つに対して、逐一「良い」「悪い」というジャッジをしてしまいます。それは、意識をするまでもなく、瞬間的に行っていることがほとんどです。
しかし、最初の段階で「悪い」と判断した出来事であっても、しばらくしてから振り返ってみた時に、実はそれがあったおかげで助かったり、成長することができたり、またはより望ましい方向に進むきっかけとなっていたことに気づくことは多々あります。歴史を振り返ってみても、大きな災害や悲劇が起こったことにより、世の中の意識の覚醒が進み、社会がよりポジティブな方向に転じていくという流れはたくさん起こっています。
一見「悪い」ことにしか見えない出来事や環境、人、状況なども、見方によっては、私達の成長のために必要なことであったり、糧だったりするわけです。
また、自分の価値基準から大幅に外れる他人の言動を目にした時、それを「良くないこと」という見方でとらえれば、嫌悪感が生じ、受け入れるのが難しくなります。けれど、そもそも「良い」か「悪い」という二元論的な見方をしなければ、もう少し深い観点で、その人の状況を理解できるのではないでしょうか。今、その人は何かの理由があって、愛と対局にある言動をとってしまっているわけです。その人の言動の裏にある思いや、そうせざるを得ない理由に目を向けるようにすれば、表に出ている今現在の姿1つをとって責め立てたり、悪い人というレッテルを貼ることも減っていきます。
あらゆる物事に対して、逐一「良い」「悪い」のジャッジをすることは、何より自分自身を苦しめることにもなります。自らが創り出した規範によって、自らが縛られ、苦しくなり、自由に生きることへの障害となります。他人を批判しているようで、実は自分が見ているのは、他人の中の自分の一部です。それが許せないから、責め、批判をしているのです。
「バランスオブダーク」を飲んでいると、無条件にジャッジをすることが減るか、もしくはジャッジをしている自分に気づくようになり、それまで「悪」や「闇」、「ネガティビティ」ととらえていた部分に対する抵抗が減っていきます。冷静で広い視点で眺めることが可能になると、今まで自分が受け入れられなかった物事や人も、その存在を認め、尊重できるようになっていきます。自分の中の許容量が増えるということは、結果的に、自分が縛りから解放され、自由になるということでもあります。
オーストラリアンブッシュの創始者イアンさんは、ボランティア活動も精力的に行っていて、例えばブラジルの孤児院にエッセンスを送ったりしているそうです。そこにいるプラクティショナーは、子供達1人1人に合わせたドーセージ(希釈)ボトルを作っていて、それを毎日飲ませているとのこと。
孤児院の子供達がフラワーエッセンスを飲むようになったら、子供が肺炎にかかる回数が大幅に減ったのだそうです。なぜ孤児院の子供達が肺の病気に罹りやすかったかというと、肺は「悲しみ」と繋がりがある臓器だからです。親がいない子供の悲しみのエネルギーが、肺の病気を引き起こしていたのではないかと思われます。
私達は、悲しみや寂しさが強い時、確かにハートチャクラ(胸周辺)がキュっと痛くなるような感覚を覚えます。感情は肉体に蓄積されますから、長年ため込んだ感情エネルギーが少しずつ肉体を蝕んでいき、ある時具体的な疾患として表出するのもわかります。
感情を抑圧し、内側にため込んだ状態でいると、心が苦しいだけでなく、肉体にもあまり良い影響を与えません。特にネガティブな感情は悪者にされがちですが、肝心なのは、自分がその感情を抱いているという事実を素直に認めることです。1つ1つの感情に「これは良くない、これはOK」と無意識的にジャッジをし、あまり自分が「良い」と考えていない感情がやってきた時に、自分を責め、その感情とそれを抱いた自分を否定する。こんなことをずっと繰り返してきた方は多いのではないでしょうか。否定された感情は行き場を失い、どんどん内側に押し込まれ、抑圧された状態で蓄積されていきます。
そもそも、人間は感情を抱く生き物なのですから、感情があって当たり前、それが自然な状態です。そして、良い感情も悪い感情も本来ありません。感情は感情です。良いとか悪いとか判断しているのは、人の頭(自我意識)です。
ヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーターには、人が心と感情の活動を抑制することの大切さが繰り返し書かれています。人が精神的修練を積むと、次第に心の抑制がとれるようになり、エゴ的な欲望や執着、情動の影響を受けない安定した状態が保てるようになっていきます。
ここにも、感情を「抱いてはいけない」という文言は書かれていません。ただ、感情にコントロールされるのではなくて、感情をコントロールできる状態にまで自分を持っていくよう、修行を重ねなさい、といっています。
感情をのものを悪者にするのではなく、そして好ましくない感情を抱いている自分を否定するのではなく、その感情の出処を探り、なぜ自分が今そうした感情を抱いているのか、掘り下げて考えていく。感情が出てきているからには、何か原因があるはずです。自分の中の、心の重しがその感情を引き起こしているわけです。重しが外れたら、同じ出来事が起こっても、以前のような悪しき感情は湧き起こらなくなり、感情そのものに苦しむこともなくなります。
感情は、自分の心の内にある傷やトラウマ、執着、固定観念の存在を知らせてくれる、アラームのようなものです。アラームを責め、アラームを否定したところで、本体機能が変わらないままであれば、また繰り返し似たような場面でアラームが鳴り続けることでしょう。
自己価値が低い、自己否定感や劣等感、罪悪感が強く、自分を苛む感情が心の多くを占めている・・こうした、自己肯定感の問題を抱えている方は、経済的な問題も抱えていることが多いです。
自己価値が低いと、「私なんて」と自分を卑下する思いが強く、「どうせ私など価値のない人間なのだから、豊かさなんてやってくるはずがない」という認識が、無意識レベルに強く浸透していたりします。豊かで経済的に何の不自由もなく過ごしたいという願望があったとしても、潜在意識を覗いてみると、実は「私は豊かである」「私は豊かに生きる権利がある」という認識よりも、「私は豊かさを受け取る価値がない」「私には豊かさがやってこない」という認識の方がはるかに強かったりするのです。
目の前に広がる現象はその人の意識の表れですから、心の中が「私は豊かではない」という思いで占められていれば、その通りの現実が造られていきます。
チャンスに恵まれないことや、経済的に苦しい環境から逃れられずにいる状態を、神様や誰かのせいにしたり、こういう運命なのだから仕方ないと諦めてしまうのは、本当にもったいないです。原因を外側に求めて他者を責め続ける日々を送るより、自分の意識を変え、行動を変え、長い間自分にこびりついてきた垢をそぎ落としていくことにエネルギーを注いだ方が、魂が本当に望む人生へと時短コースで進むことができます。
自分の意識と行動次第で現実は変えていくことができます。それは、誰かの許可を得なければいけないことでもありませんし、誰かに自分の代わりに決めてもらう必要もありません。というより、本当に心の底から自分が決心しない限り、具体的に動いていくことは難しいと思います。
誰それが反対している、きっと○○が良い顔をしないだろう、周りにいろいろ言われそう、変な目で見られるのが怖い、etc...行動に移す決心がつかない状態の時に、よくこうした言い訳が浮かびます。自分が本当に望む道へと進ませないように、エゴが邪魔をしてくるのです。そこで、エゴの声を聞いて今まで通りの人生を歩むか、恐れを払拭して自己変革の道へと進むのか、それはその方次第です。選択しているのは、全て自分です。
経済的に苦しい状況でいることで、現実的な「縛り」を生み出し、自分を次の道へと進むことをストップさせている場合もあります。行動を起こすには勇気とエネルギーがいるので、たとえ行き詰っていたとしても、今の状態でいることを無意識レベルで選択し、停滞状態に身を置いているのです。現状維持でいる方が、一見安全で安心感があるようにも思えるからです。
また、自分以外の誰かに、ストップをかける役割を演じてもらっていることもあります。家族など身近な人や、自分にとって影響力を持つ人であることが多いです。
フラワーエッセンスにも、豊かさに関連したものはたくさん出ています。そういったものを飲むことで、内面が「豊かである」という気持ちに満たされ、一時的に豊かな状況が生まれることはあります。ただ、その状況を定着させるためには、根本的な部分から自分が豊かであるという認識を持つ必要があります。「自分は豊かに生きていいのだ」と、自分に許可を与える必要があります。
イアンさんは、現実とスピリチュアルな世界の両方に理解と深い造詣があり、そしてそのバランスをとても上手にとっていらっしゃる方だなあ、という印象を受けました。どちらかというと、あまりスピリチュアルな方向に傾倒し過ぎることなく、肉体や現実的な事象に対しての具体的なアプローチをとても大事になさっているようにも感じました。オーストラリアンブッシュフラワーエッセンスには、お医者さんなどの医療関係者のファンが多く、実際に医療機関でも使われていたり、研究に用いられているというのもわかります。
世界中をあちこち飛び回っているイアンさんですが、年の半分は、エッセンス作りに時間をとっているのだそうです。エッセンスを作る植物が自生している場所の写真をいくつかスライドで見せてくれたのですが、中には素人が登るにはあまりにも危険と思われる、急斜面の崖のような場所もありました。体にロープを巻いて登っていくのだそうです。誰かに手伝ってもらったり、他の人に頼むことはできないものなのだろうかと思っていたら、ご自身が次のように言っていました。
「オーストラリアンブッシュフラワーには40人ほどのスタッフがいますが、実際にエッセンスを作るのは私1人です」
それも、自分の調子が良く、クリアーな状態の時だけにしているそうです。エッセンスを作る時には、瞑想をし、お花(のディーバ)とコンタクトをとって、許可を得てから作るとのこと。
そして、エッセンスを作る時には、見えない世界のガイドの助けも借りているそうです。そのうちの1人としてイアンさんが名前を挙げていたのが、私が最近個人的に探究をしているあのヒルデガルド・フォン・ビンゲン(のスピリット)。イアンさんはヒルデガルドが過ごしていたドイツの修道院にも過去に訪れており、その場所(大変波動の高い場所だったとのこと)でヒルデガルドのスピリットからのメッセージを受け、そこにあった石のエネルギーを使ってエッセンスを作るようにいわれたのだそうです。
イアンさんは、現実に根を下ろして極端にスピスピしていない方との印象を受けましたが、根本的な部分では、自分はスピリットに動かされて、スピリットの助けを借りて行動しているというスタンスをお持ちのようでした。
ワークショップの終わりに、参加した方達全員で輪になり、手をつないで歌を歌ったのですが、その時にもイアンさんは、次のようにおっしゃっていました。
「今日このようなワークショップを開くにあたってご尽力してくださった方々にお礼を申し上げます。そして、この機会を作ってくださったガイド達にも感謝をいたします。私達がこのような場をもつためには、たくさんのガイド達の助けがなければ実現しなかったでしょう。参加してくださった皆さんのガイドも含めて。」
長い間、人々の心身の不調を癒すため、精力的に活動していらっしゃるイアンさんは、このように謙虚な姿勢で取り組んでいらっしゃるからこそ、目に見えない存在からも愛され、助けられ、パワーをもらっているんだなあ、と思いました。
うぶすなにお問い合わせくださるお客様の中には、オーストラリアンブッシュ(AB)のフラワーエッセンスを以前使っていたとか、今現在使っている、ファンであるという方が多いです。そして口々におっしゃるのが、ABのエッセンスは効果が出やすい、強力である、わかりやすい、ということ。私自身も個人的に使っていてそのように感じていますし、エネルギー次元に作用しているのだろうけど、同時に肉体的次元でも変化が表れやすかったり、エネルギーの質を体感しやすいという印象があったりして、いろいろと興味深いです。以前、創業者であるイアン・ホワイト氏の著書を読んだ際は、その造詣の深さと自然界に対する真摯な姿勢に感銘を受けました。一度ご本人から直接講義を受けたいと思っていた矢先に、イアンさんが来日してワークショップを開くというお知らせがあったので、満を持して参加してきました。
2日間の講習は、連日時間があっという間に過ぎ、気づいたら終了の時刻になっていて驚いた程、濃密で奥の深い内容でした。イアンさんは、エネルギー世界への理解と知識もさることながら、肉体・医学・解剖学・植物学的分野における造詣も深い方です。植物界がどれほど私達人間に恩恵を与えてくれているか、そして私達の三次元的肉体がいかにして感情・マインド・魂レベルの世界と繋がっているかといったことを、非常にわかりやすく、明瞭に説明してくださいました。ボディ・マインド・スピリットを三位一体でとらえ、そのどれもが大切であり、それぞれが密に影響し合っているという事実を、様々な事例やデモンストレーションを通して教えて頂きました。
以前から興味があったキネシオロジー(筋反射)テストも、きちんとした形で見ることができ、エッセンスって本当に肉体次元にも影響を与えているのだな、ということが改めて実感できました。
私自身も一度、前に出てデモンストレーションの実験台になったのですが、それは次のような実験でした。
①まず、被験者が左腕をまっすぐに伸ばした状態で肩の高さまで上げ、筋力を使って腕が下がらないよう、しっかりとホールドします。
②被験者は目を閉じます。そして、対面している数十人の人々が一斉に、被験者に対してややネガティブな念を送ります。
③ネガティブな念を送られている間、被験者の左腕を下に押すと、簡単に下がってしまいます。
④次に、被験者は、オーラを保護してくれる作用のあるエッセンスを飲みます。
⑤飲んだ後、対面している人々は再び被験者に向けて、先ほどと同じようなネガティブな念を送ります。
⑥ネガティブな念を送られている間、被験者の左腕を下に押すと、今度はがっちりとホールドしたまま、簡単には下がりません。
・・・つまり、腕が下がらないということは、その人のエネルギーフィールドがしっかりと守られているということ。1度目と同じようなネガティブな念を送られているにも関わらず、2回目の時には、エッセンスのおかげでオーラフィールドが守られ、自分の元に送られてきたネガティブエネルギーを跳ね返したということがわかります。
話を聞いただけではこの手の話は半信半疑に思うかもしれませんが、これは私自身が被験者になったので、嘘でもヤラセでもないことが本当に体感できました。③の時は、イアンさんに左腕をチョンと下に押されただけで、自分でも驚くほど簡単にフニャリと下に下がってしまったのです。ちなみに②の状態の時、対面している人々から送られてくるピリピリした念が私のエネルギーフィールドめがけて一斉にやってくるのを感じ、正直「怖い」と感じました。そして、急に心臓がバクバクと速く脈打ち始め、サーッと自分の中から力が奪われていくと同時に、自分が無抵抗になったような感覚がありました。気力と体力が一気に持っていかれたような感じです。
④でエッセンスを飲んでからすぐに⑤を行ったのですが、この時は、前述したような心臓バクバクも治まり、全体的な安心感がありました。見ていた方が言うには、④の後、私の目の力が強くなったとのこと。⑥でイアンさんにもう一度腕を押された時には、しっかりと力が入り、腕が下がることはありませんでした。③の時と違って、自分の意思できちんと体をコントロールできる状態であり、自分は安全である、大丈夫だという自信がしっかり保てていました。
ネガティブな念エネルギーというものは、目には見えないけれど本当に存在しています。できるだけ他人とネガティブな関係を作らず(その分ネガティブエネルギーを受けることになる)、と同時に自分のエネルギーフィールドをしっかりと守ることがいかに大切かということが改めてわかりました。
芸能人や有名人など、自分の姿を日常的に大衆の目の前に晒し続けている人というのは、膨大な人々の様々な念を日々受けているわけですから、それだけエネルギーフィールドの浮き沈みも激しくなるものなのかもしれません。極端なメンタルの変容が起こりやすいのも理解できます。ポジティブな念だけを受ければ良いのでしょうが、中にはネガティブな念を送り付ける(無意識的にでも)人もいることでしょう。大衆の面前に姿を出すということは、あまり無防備な状態ではやらないに越したことはなく、また相当の覚悟と自分を守る努力が必要だと思います。
イアンさんを見ていて感じたのが、スピリチュアルな世界に深い理解がありつつも、しっかりと地に足を着けた状態で、現実世界を精力的に生きていらっしゃるということです。エネルギーとかスピリチュアルとか、そちらの方向に引っ張られ過ぎると、肉体や現実から乖離してしまったり、日常生活に魅力を感じなくなったりといった分裂が起きやすくなります。私もこれまで多々失敗を重ねてきましたが、改めて、どちらかに極端に偏るのではなく、両方の世界を大切に、両方の世界への理解を同時に深めていこう、そして目の前の出来事に一つ一つ、真摯に向き合っていこうと気持ちを新たにしました。
少し前に、働く女性のアンケート結果を目にしました。「一番の悩みはなんですか」との問いに対し、ダントツの一位は「人間関係」でした。この種の質問はだいたい、どんな世代でも、どんなグループの人であっても答えが同じであることが多いです。実際、悩んでいる人の話を聞くと、そのほとんどが対人関係の問題です。
人間関係の悩み。具体的には、自分と他人との関係性から生じるネガティブな思いや感情に悩まされているパターンが多いように思います。つまり、人との関係性そのものや、今いる状況それ自体に悩んでいるというよりも、その状況に身を置いていることで生じている、怒りや嫉妬、恐怖、不安、閉塞感、みじめさ、悲しみといった悪しき感情に圧倒され、苦しんでいるのです。
人との関係性は、自分の心の中の信念を表しています。自分が信じていることが、現象という形をとって自分の目の前に現れ、他人の振る舞いを通して、自分の深層にある意識に気づかせてくれます。
自分に対して理不尽な振る舞いや物言いをしてくる人がいたとします。普通は怒りの矛先はその言動をとっている本人に向かうでしょう。けれど、その人を悪者にして、相手を責め続けていたとしても、状況が良くならないどころか、本質的な問題の解決にはなりません。たとえその人と離れられたとしても、根本の原因が未解決のままなので、しばらくしたらまた似たような人を人生に引き込むことになります。そして再び似たような関係性が始まり、それに対してかつての自分と同じような反応をしている自分に気づくはずです。
同じようなパターンがなぜ繰り返されるかというと、それは自分の深層意識の中にある信念が変わっていないからです。他人は関係ないのです。他人は自分の内面を映し出してくれる鏡でしかありません。ベクトルを相手に向けるのをやめて、自分の内側をのぞき込み、そこに何があるのか、どんな信念を自分が抱いているのか、どんな思いが今のこの状況を創り出しているのか、気づいて癒して解放してあげない限り、同じ状況は延々と繰り返されます。
本当は、薄々気づいていると思います。どんなにひどい、赦し難いことを相手が自分にしてきたとしても、どんなに相手が「悪い」としても、怒りをただその人にぶつけているだけでは、自分のこの苦しみが消えることはないということを。
「赦し」は人生における最も難しい課題の1つかもしれません。けれど、これができないうちは、心が真に解放されることはなく、本当の意味での自由は得られません。
心の内側にある信念や思いは、大変深い根を張っていることが多いです。場合によっては、生まれる前から引きずっているものもあり、魂として背負っている傷や課題であることもあります。そうした魂レベルの信念は、私達が自我意識として認識しているレベルでは解決することが難しいです。癒しが別次元のレベルで起こる必要があります。
私達ができることは、祈り、魂レベルの癒しと解放を「お願い」することです。自分の力で何とかしようとするよりも、もはや手放して、大いなる力に委ねてしまった方が、癒しのプロセスがスムーズに起こりやすくなります。
私が抱いている信念。「こうあるべきだ」「私は~だ」「~しなければいけない」という固定観念。私が私に対して抱いている評価。世の中に対する思い込み。これらは、深層意識の中にどっしりと鎮座し、長年我が物顔で人生を仕切ってきました。あまりにも当たり前のように存在し続けてきたため、存在そのものに気づきにくくなっています。私の魂は、わざわざ現象を通して、他人を通して、私がどのような思いを深い部分で抱いているのか、気づかせてくれています。現象に惑わされないでください。私を傷つけ、苦しめ、縛ってきた張本人は、時折目の前に現れる他人ではありません。私の中にいます。
二つの選択肢の狭間で、決断を下すことに躊躇している場合。二つの内の1つが、恐れ・不安・心配といった自我意識(エゴ)に基づいた選択肢で、もう1つが、魂の声、天の声、ハイヤーセルフの声に基づいた選択肢であるというシチュエーションがとても多いです。
心の奥底では、後者の声に従った方が全てうまくいくこと、そして本当はそうすることを自分が望んでいることを知っているのだけれど、エゴの声の方を聞いてしまって、進むべき道がわからなくなってしまっているのです。恐れや不安が強い時というのは、エゴの声つまり頭のおしゃべりがとてもうるさくて強いので、心の内側で静かに囁いている魂の声に気づきにくかったり、アクセスが難しくなります。
一般的にエゴの声の方が、強い調子で具体的な指示や断定的な考えを出してくるので、惑わされやすいです。「こうしなければこれを失うことになる」「○○がこう言っているので、こうするべきだ」「こうなりたくなかったら、これをしなければいけない」etc...
頭で響いているそんな声に従っていた方が、一見楽で簡単なようにも思えるかもしれません。けれどエゴの声に従っていると、結果的に更なるエゴを助長することになるので、心の充足感は永遠に得られないままです。また、恐れベースで下した決断は、往々にしてうまくいかないものです。
本当は、魂が望む方向性はわかっているはずなのですが、内なる望みを自分でシャットアウトしていたり、アクセスできないと思い込んでいたり(自分以外のものや人に依存することになります)、何らかの理由をつけて遠ざけようとしていたりします。エゴの声を聞かずに内なる声に従うのは、とても勇気がいることなので、つい逃げ腰になってしまうものです。けれど、本当に自分が望んでいることは魂の声に従うことなので、そこの部分で葛藤が生まれます。そして、エゴと魂の声との狭間で悩み、決断を下せずにいるというわけです。
エゴの声は聞かず、内なる魂の声に従って生きる。そう強く決断し、強い意思を持つことで、エゴとの葛藤とは次第に無縁になれます。エゴがなくなることはないけれど、少なくともエゴを主役に奉り、エゴに支配される苦しみからは逃れられます。内なる声、魂の声、天の声とのパイプが太くなり、迷いがなくなっていきます。
自己肯定感。果たして世の中のどれだけの人が、この感覚を真に持ち合わせているのだろうかと思います。「自分に自信がある」と口では言っている、もしくは自信があるかのように振る舞っている人でも、心の内には様々なコンプレックスや自己否定感を抱えていることだってあります。極端な自己アピールや、他者に対する威圧的な態度は、こうした内面の自信のなさの表れである場合が多いものです。
自己価値が生まれながらにして高く、そして高い状態のまま成長する人など、世の中にいるのでしょうか。
幼い頃、家族や先生など周囲の大人達から否定的な言葉を投げかけられたり、いじめを受けたり拒絶された経験を持つために、「自分はだめな(価値のない)人間なんだ」という感覚を抱くようになるケースはよくあります。その場合、そういった自己否定的な感覚は、物心ついた時からごく”自然に”自分の中にあったため、自分の一部として当たり前の存在になり、大人になってからでも特に客観的に意識することがなく、自分に自己否定の気持ちがあるという認識さえしていないことが多いです。誰かに言われて初めて、もしくは何かのきっかけで自分を見つめなおした時に、「そういえば私、自分のことを大切に思ってないかも」と気づいたりします。物心ついた時から自分の中にあるものには、客観的に気づきにくいものですし、何もしなければ、あって当然のものとして居続けます。自己変革には、多大な意思の力と勇気と努力がいるものです。
また、たとえ運よく愛に恵まれた家庭環境で育ち、自己肯定感が健全に育まれていったとしても、いざ学校や社会に出て行って他者との関わりを持つようになった時、そこで出会った人々や体験した出来事によって、挫折を味わったり、自信を失ったりすることなど、どの人だって経験するに違いありません。何の挫折も失敗も自信を失う経験もしたことがない人なんて、おそらく1人もいないのではないでしょうか。
そう考えると、多かれ少なかれ自己肯定感の問題は、私達人類が共通して抱える問題なのかもしれません。
自己肯定感が低い人が、自分は自己肯定感が低いことに改めて気づき、「自分をもっと愛したい」「自分の本当の望みを大切にしたい」「自己価値を高めたい」「自信を持ちたい」と思った時、一体具体的に何をしたらよいのか悩むことが多いかもしれません。自己肯定感はどうやったら高めることができるのでしょうか。
たくさんの自己啓発本を読んで、そこに書かれてあることを実践し、毎日ポジティブな言葉を話すように心がけていれば、ポジティブな自分になれるのでしょうか。言われた通りにマントラをぶつぶつ唱えていれば、エネルギーが高まって自動的に自己価値も高まるのでしょうか。セミナーやカウンセリング、ヒーリングを受け、その道では有名なカリスマ講師・カリスマヒーラーの教えを受ければ、何かが変わるのでしょうか。石や護符、その他諸々のエネルギーグッズを身に着けていれば、何もせずとも勝手に自分が望む道に導かれていくのでしょうか。
逆に言えば、世の中で自己否定感を努力によって克服し、自分という存在を本当の意味で大切に思える境地に至った人々は、自己啓発本やらヒーリングやらグッズやらがあったおかげで、そこにたどり着くことができたのでしょうか。
それらを否定するつもりもありませんし、場合によっては大きな助けとなってくれることもあるとは思います(フラワーエッセンスだってそのうちの1つです)。けれど、自己価値を高めるためのマストアイテムだとも思えません。なぜなら、それらの助けを一切借りることなく、自己肯定感を育んでいける人々がたくさんいるからです。
自分という存在を価値ある存在に思える時。それはどんな時でしょうか。それは、頭の中では決して起こらないものだと思います。実生活の中で、具体的に手や足を使うことでしか、得られることができないと思います。
自分の作品、自分が創造したもので、誰かが喜んでくれた時。助けを必要としている人に、自分ができることをした時。本当にやりたかったことに思い切ってチャレンジしてみた時。他の誰に言われるでもなく、自分の内なる声に従って行動した時。恐れを振り切って、困難に立ち向かった時。落ち込んでいる人に、明るい励ましの言葉をかけてあげた時。誰かのために、自分の能力と時間を使っている時。目標に向かって、コツコツと努力をしている時。
そんなことを1つ1つやっていくうちに、自然と自分がこの世にいる意義や、自分の存在価値などが少しずつ高まっていくものなのではないでしょうか。自分がいることで、自分がした行動で、誰かの役に立つ。人が直接介在していなくても、ポジティブな行動を起こすことによって内面がポジティブになり、バイブレーションが高まって、その波が周囲にも波及していくので、潜在的に世の中のためになっています。
何の具体的な行動も起こさず、実生活において何の変化も起こさないまま、ただ頭の中で、ポジティブワールドを創り出そうとしてもまず無理です。自分に自信が持てなかった、以前の自分と同じ状況、同じ状態でいるのに、自己価値や自信をどうやって高められるのでしょうか。
具体的に動いて、自分や自分の生活、パターン、人生を変えていくことでしか、心から望ましい生き方をしている感覚など、得られないと思います。
ヒルデガルトの預言書『病因と治療』を読んでいると、すっかり”科学的な”論拠に基づく説明に慣れてしまっている現代人の私にとっても、なぜか深い部分でストンと腑に落ちる文章に出会います。例えば、
「夏、体内がとても熱いのに大食すると、血が温まりすぎて体液は有害なものとなり、肉はぶよぶよと膨れあがる。それは空気が熱すぎるからである。もしこの時期に小食を守れば、病気に罹ることはなく、健康でいられることができる」
「深い悲しみの中にある人が元気を取り戻すためには、適切な食べものを十分に摂る必要がある。それは悲しみに打ち負かされないためである。大きな喜びにある時は、小食を心がけるべきである。こうした時、血は緩んでおり、さまよっているからである。このような時に大食すると、体液は嵐のようになって激しく発熱する」
「体格ががっちりしていて健康的で、腱(神経)が丈夫で、強い食欲を持った美食家の中には、肉や贅沢な飲食物に惹かれる人たちがいる。彼らの血は蝋のような色に変色し、どろどろになっている。それがため、血は正しい経路を流れることができないのである。こういう人は健康体であるため、熱や体の衰弱によって血が減るということはなく、血はむしろ肉や皮膚の中へと広がっていく。その血が有毒な体液で肉や皮膚を侵し、その部位を変色させて潰瘍だらけにするのである」
「容器の中で圧力をかけてチーズを造るには、凝固した牛乳を常に加え続ける必要があるように、赤子や子供にも、彼らが十分に成長するまでずっと飲みものや食べものを与え続ける必要がある。そうしなければ赤子や子供は成長できず、死んでしまうであろう」
「年をとり老衰した人たちにとって、飲食物の補給は必要不可欠である。というのも、血と肉が減る年齢になると、食べ物によってそれを補わねばならないからである。人間は大地のようなものである。大地は湿り過ぎても害になるが、湿り気が少なすぎたりなかったりしても肥沃にはならない。このように、大地は程よい水分を必要とするが、それは人間においても同じである」
科学的なメカニズムをとうとうと説明されるより、人体の機能がより多元的にダイナミックに表現されているヒルデガルトの記述を読む方が、なるほどそうなのだなと因果関係がより明快に理解できる感じがします。
『病因と治療』の後半部分は、具体的にどのような方法で心身の不調を治したら良いのか、とても詳細な説明が多岐にわたって書かれています。多くは植物(特にハーブ)の力を使った方法です。例えば肝硬変の治療法については次のようにあります。
「種々雑多な食べものを節制もせず分別なく食べていると、肝臓が損なわれ硬化してくる。フキタンポポとその倍量のオオバコの根、ナシの木に着くヤドリギ周辺にできるどろどろしたものをフキタンポポと同量用意する。
フキタンポポとオオバコの根に、千枚通しなどの小さな道具を使って穴をあけ、その穴に前述したドロドロしたものを詰める。これを純粋なワインに入れ、そこにクルミの木の葉や小枝に出来るマメ状の瘤(こぶ)を1ペニーウエイト分加える。食事とともに、あるいは単独に、温めずにこれを飲む。フキタンポポの熱と冷は肝臓の腫れを鎮め、オオバコの熱は肝臓の硬化を防ぎ、ナシのヤドリギにできるどろどろしたものの冷はリヴォル(毒素)を減らし、クルミの木の葉や小枝の瘤は、その苦さにより悪い体液を運び去る。これらは温めず、ワインにそのまま漬けるだけにする。こうすることで、より穏やかに肝臓に達することができるからである」
このように、種々様々なるハーブや自然界の原料を用いたありとあらゆる治療方法が紹介されており、その情報量は膨大です。ヒルデガルトの元には、遠方からも多くの患者たちが訪れ、その名声は皇帝や教皇の元にまで届いたといいます。
植物の持つ、人体に対応する癒しの力を活用することで、当時の病める人々を数多く癒していたわけです。自然界の恵みのありがたさと、人間に与えられた救済の力を感じます。
興味深い治療法だなと思ったのは、癲癇(てんかん)の治療法です。「モグラの血を乾かしたものにメスのアヒルのくちばし、さらにメスのガチョウの足の皮と肉を取り除いたもの」をすり潰した粉末を用いた治療法なのですが、それを布で包んだものを、「最近モグラが地面を掘った場所に三日間置いておく」とします。なぜモグラかというと、「モグラはふいに姿を現したり隠れたりする習性をもっており、また地面を掘ることに慣れているので、その血は、同じように現れたり引っ込んだりする癲癇に有効である」からとのこと。そして混ぜ合わせた粉末をモグラが穴を掘った場所に置かなければならないのは、「その土の方が他の土よりも健康であるため、これらの粉末は自らの液汁と生命力とを、その土の液汁と生命力から授かるからである」。
モグラの血の物理的な成分のみならず、モグラという生き物が持つ習性とエネルギー的な質までもを取り入れた、まさに波動療法的な治療法ともいえます。
この他にも、ハーブを乾燥させる場所と時間を少しずつ変えて、24時間全てのエネルギーを取り入れる方法があったり、また、使用する水にもよく細かい指定がなされています。川の水には空気の質が入っている、泉の水は湿性が強い、井戸水には乾の傾向がある、等々、病気の質と治療の方向性によって、水さえも使い分けていたのです。ヒルデガルトの治療法にはよくワインが登場するのですが、熱や温のエネルギーが必要な場合は過熱しますが、それがかえって邪魔になるケースでは、「温めてはいけない」と書かれています。
今から800年以上も前に、物理的なアプローチだけでなく、エネルギー的なアプローチも同時に行う、こんな多次元的な治療法が行われていたことに新鮮な驚きを覚えます。
今から800年以上も前、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国内)の修道女であったヒルデガルトという人は、神から与えられたとする聖なる預言をいくつかの書物にまとめました。預言というのは、高次の存在からの情報です。預言を受ける人の心の状態、意識の高さ、いかに自我意識から己を切り離せているか、によって、受け取る預言の質と正確性が変わってきます。
古から人類に多大な恩恵を与えてきた数々の預言の書は、より純粋な媒体を通して伝えられ、その質の高さとメッセージの正確さをもって、時代を超えて現代にまで残されている情報といえます。
ヒルデガルトの時代、修道院は祈りと学びの場であると同時に、病人を治療する病院のような役目も果たしていました。当時は、薬といえば主に植物の成分など、自然界に存在する物質から作られていました。ヒルデガルトも膨大な植物学の知識を活かして、庶民から王侯貴族まで多くの人々の心と体の病を癒したといいます。彼女の残した預言の書の1つ、『病因と治療』には、宇宙の成り立ちから人体の構造、病気の原因とその治療方法まで、明快な論理性に基づく具体的な説明が、詳細に記されています。
地動説が出てくる時代より遥かに昔の、自然科学の考えが未発達であった中世のあの時代に、理路整然と宇宙と生命の仕組みを解釈することは、個人の力では到底困難だったのではないかと推察します。やはり、ヒルデガルト自身が述べているように、「神の命ずるところに従って」与えられた知識であると思わざるを得ません。
ヒルデガルトによると、この世界は、4つの元素から成り立っているといいます。それは、「火・空気・水・土」のことで、これら4つの元素は互いに絡み合い、結合し合って一体であるとしています。また、植物を始めとする自然界の生物を「温・冷・湿・乾」の性質に分類したり、人体は4種類の体液から構成されるなど、東洋の陰陽五行やアーユルヴェーダの考えとも共通する部分があります。
また、人体と月との関係性において、ヒルデガルトは次のように述べています。
「月が満月に向かって大きくなる時に、人の血は増加し、月が小さくなる時に、人の血は減少する」
その理論は、植物にも同様のようです。
「根から葉を生じる木もまた月の満ち欠けに伴い、その樹液を増減させている。月の満ちてゆく時期に伐採すると、木の中には樹液や湿が残っているため、虫や腐敗によって木が消耗する率は、月が欠けてゆく時期に伐採したものに比べると、高くなる。月が欠けてゆく時期に伐採すると、月が満ちてゆく時期に比べて、樹液がやや減少しており、木はより堅くなっている。堅くなった木の中では、月が満ちてゆく時期に比べて虫が育ちにくく、木の腐敗によって受ける損害も、月が満ちてゆく時期に比べれば少ない」
「よいハーブとは、月が満ちてゆく時の、薬効が高まった時期に採取したものをいう。この時期のハーブは、月が欠けてゆく時に摘んだものと比べると、舐剤や軟膏などを含め、あらゆる薬用に適している」
昔から、満月の夜にハーブを採取するハーバリスト達は数多くいました。満月の夜にハーブの薬効が最も高まると考えられていたからです。そのため、魔女は満月の夜に集会を開くというイメージが持たれたとも言われています。
女性の月経周期が月の満ち欠けの周期と連動していたり、満月の日には出産の数が増えるなど、人体と月との関連性は昔から言われ続けてきました。ヒルデガルトの唱える説とも重なります。
「痛風」の説明の部分では、「人が種々雑多な食べ物を食べると、有害な体液が過剰になってあふれ出し、抑制が効かなくなって体中を過剰に流れ、ついには下半身に降りていき、脚と足を侵すようになる。この体液は、本来あるべき上半身に昇ることができずに降りてきたものである。この体液は下半身に留まってリヴォル(毒素)へと変化し、硬くなる。こうして脚と足は痛風を病むようになり、その痛みによって、歩行は困難になる」
と書かれてあります。そしてなぜ女性は男性と比べてこの病気になりにくいかというと、女性はたとえ暴飲暴食をして有害な体液が増加したとしても、「月経によってこうした体液を排出している」ために、痛風には罹りにくいのだそうです。実際現代医学の説によると、女性が痛風になりにくいのは女性ホルモンが尿酸を腎臓から排出するのを促しているからなのだそうで、ヒルデガルトの記述と何となくリンクします。
これ以外にも、女性は月経があることで、様々な有害な物質を体外に排出しており、そのことで体のバランスが保たれている、という説明が何度も出てきます。女性にとって月経とは浄化でもあるとのことです。
宇宙誕生の話や人体の仕組みと病気のメカニズムなど、ヒルデガルトの預言は壮大で深淵です。時として説明が難解だったり、果たしてそれは本当なのだろうかとつい疑問符がついてしまうような記述も出てきますが、800年以上の時を経てもまだ色褪せない普遍的なテーマや、現代にも役立つ実践的な知識がちりばめられています。それと同時に、ヒルデガルトという人の、この世の真理に向き合う真摯な姿勢と、神への献身が伝わってきます。
参考文献:『聖ヒルデガルトの病因と治療』ポット出版、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン著
心のお荷物が減っていくと、確かに現実も変化していきます。魂の目的にフィットした方向に軌道修正されていくという感じです。とはいえ、浄化が必要な間(おそらく死ぬまで)は、何を手放せば良いのか、そこに気づかせるような出来事が起こり続けます。
心のお掃除が進んだからといって、現実で何事も起こらなくなるわけではありません。何の「問題」も起こらなくなるなんてことはありません。生きている限り、予想外の出来事も、受け入れがたい現実も、たくさん起こります。ただ、そういった出来事が起こった時に、その人がどれだけ執着を手放せているかどうかで、反応が違ってきます。同じ出来事でも、人によって感じ方やショックの受け方、そしてそこから何を学び取るのかが異なってくるのは、そういうわけです。出来事はただ起こったことでしかなく、良いも悪いもひどいも素晴らしいも本来ないのです。
辛い思いをたくさん抱えている人は、自分がどれほど大変な思いをしているか、どれほど悲惨な幼児期を過ごしたか、どれほど恵まれずに不幸であったか、とうとうと語ります。もちろん、心の傷を癒すためのステップとして、まずその傷に向き合い、感情を解放することは大切なのですが、そこにずっと固執していると、次に進むことができません。
自分は不幸であった、もしくは自分は不幸である、という考えを手放せずにいる時は、「なぜ自分ばかりがこんな苦しみを味わわなければいけないんだろう」という憤りを抱いていることが多いです。その裏には、自分が受けた不幸は、本来受けるべきではなかった、もしくは受けずに済んだはずのものであるという思いがあり、自分の身に起きた現実を否定し、受け入れることに抵抗があります。そして、自分の身に起こった現実を、誰かのせいにしたり、何かを責めることで、自分で責任を取ることを放棄してしまいます。
確かに、自分の身に起こった受け入れがたい現実を、誰かのせいにしたり、自分以外の何かに責任を負わせることは簡単かもしれません。けれどそのような考えでいるということは、怒りや恨み、憤りの感情と共に生きるということであり、それは必ずその人の心と体を蝕んでいきます。そして、復讐心に基づいた、見返してやりたいというエゴに支配された人生、不幸を恨んで悲しみと嘆きに満ちた人生は、生産性がなく、息苦しいものです。どうして自分ばかりがこのような目に遭わなければいけないのだろうという被害者意識も、裏を返せば「自分は特別である」というエゴの声から来ています。自分は特別であるから、本来このような不幸は受けるべきではないと思っているのです。
また逆に、自分は「特別」な存在だから、神様が私を選んで、こんなにたくさんの不幸を授けてくださったのだという考えも、やはり思いあがった自我意識のなせる業です。自分の身に起こった不幸を誰かにひけらかしたり、いかに自分が困難と「闘って」いるかということを周りに知らしめる必要も本来ありません。誰かに自分のことを話したいと思うのなら、その動機がどこから来ているのか、注意深く眺める必要があります。
過去を清算し、過去に縛られず、過去を振り返らず、自分の身に起こったこと全てを粛々と受け止め、誰のせいにもせず、誰も責めず、(必要以上にアピールもせず)、ただそこから学ぶべきことを学び取って、今後の人生と他者のために生かしていく。難しいことですが、結局一つ所に留まって恨み節をつぶやいているより、1人でも多くの人に知ってもらおうと躍起になるより、ずっとずっと自由で楽で、縛られない生き方であるような気がします。
その昔、ヨーロッパ特にフランスやイギリスの王様は、病を癒す「不思議な手」を持つと信じられていました。病気を持った人が王様の手に触れられると(”ロイヤル・タッチ”)病が治ると信じられていたため、多くの人々が王の元に殺到したといいます。「信じられていた」だけでなく、王が手を触れた多くの人が実際に病が癒えたという記録が残っています。かの有名なエリザベス一世にも、癒しのパワーが備わっており、多くのロイヤル・タッチを施しました。
かつての王様が特別なヒーリングパワーを持っていたのか、それとも、その時代の人々の王権に対する信仰が癒しの力を呼び起こしたのか。プラシーボ効果を唱える人もいますし、当時の王様が民衆に対して威力を見せつけるためのパフォーマンスとして行っていたという説もあります。
何が真実かはわかりませんが、とにかく中世から近代に至るまで、歴代の王様が膨大な数の人々の病を、手で触れることで癒していたことは事実のようです。
福音書にも、イエス様が数多くの病人に手をかざしてヒーリングを行っていた記述がたくさん出てきます。興味深いのは、ある時イエス様が故郷ナザレに行った時の話です。そこで人々は、
「これはあの大工の息子ではないか。母はマリヤで、兄弟たちは皆私達の所に住んでいるではないか。この人は、こんなことを皆どこから覚えてきたのだろう」
と言い合います。イエス様は、
「預言者が尊敬されないのは、その郷里と家族のところだけである」
と言い、その場所では奇跡を起こすことができませんでした。人々が信じなかったからです。イエス様は何度も何度も、「信仰(信じること)」の大切さを人々に説きます。
「わたしを信じる者は、わたしを信ずるのではない。わたしを遣わされた方を信ずるのである」
(ヨハネによる福音書)
奇跡が起こる時というのは、そこに関わっている人間個人の力を信じた時というより、その人を動かしている大いなる力を信じ、身を委ねられた時に起こるのではないかと思います。人は媒体に過ぎず、私達を動かしている存在はもっと高い所にあります。その存在を介してのみ、人は癒され、救われ、浄化されると思うのです。
フラワーエッセンスには、ネガティブからポジティブに切り替える力が確かにあります。けれど、フラワーエッセンスを飲んでいれば、ネガティブな感情が湧かなくなる、というわけではありません。
例えば、長い間自分の感情を押し殺し、表に出さないよう出さないようにと抑えてきたような人がフラワーエッセンスを飲むと、ずっと抑えてきた感情の扉がパカッと開いて、一気に流れ出す(浮上してくる)ことがあります。
それはやはり、その人が本当にその人らしく生きるためには、まずは自分自身に素直にならなければいけないからです。自分に嘘をついて、本当に自分が感じていること、本当に信じていることに対して目を背けていては、本当の自分らしい生き方などできません。手始めに、過去からずっと背負ってきたお荷物を一度降ろし、ため込んできた負の感情を外に出し切ることで、自分の中身を綺麗にする必要があるのです。
内面がドロドロと負の感情で渦巻いている状態で、「私らしい」新しい人生など始めることは難しいです。望んでいる結果が受け取れないことが多いですし、いずれ内的な問題にぶち当たることになります。望むように生きたかったら、まずは心のお掃除、浄化が先です。
自分に素直になること、自分の感情に素直になること。泣いてわめいて、怒りをぶちまけて(他人を傷つけない範囲で)、悔しかった、悲しかった、寂しかったのだと正直に認めてください。ずっと「良い子」できた人ほど、ネガティブな感情を表に出すことや、自分がそういう感情を抱いていることに対して罪悪感があったり、否定しようとする傾向があるようです。けれど感情は感情、良いも悪いもそもそもありません。どんな感情を抱いているから罪だとか善だとか、ジャッジする必要はないのです。ただ、その感情を認めてください。存在を認めて受け入れてください。その感情を自分が抱いていることを否定も拒絶もしないでください。ただ、眺めてください。
感情を否定しているうちは、自分に対して本当の意味で素直になれておらず、自分のことを真に受け入れていることにもならないので、どこかで自己否定感がくすぶり続けます。自己否定感が拭い去れないままだと、人生自体が膠着します。
人生を変えよう、自分らしい生き方をしよう、魂の望む方向に進もうと決心したら、まずは心のお掃除、感情の解放がスタートラインです。そこを飛び越えて次に進むことはできません。フラワーエッセンスは、そんな時にとっても大きな力になってくれます。自分の負の感情に向き合うのはつらいですが、向き合い、受け入れ、そして手放す過程をよりスムーズに、楽に進めてくれます。
世の中には、想念の力が一般的なレベルと比較して特別強い人がいます。ポジティブな想念であれネガティブな想念であれ、その人の抱いている”念”の渦がとても大きいため、近くで接している人にも多大な影響力が及ぶことがあります。
その人と話していると、まるでその人から出ている感情と思考のボルテックスの中に自分も引き込まれていくような感覚がし、自分の軸が揺り動かされ、冷静な視点と高い見地から物事を眺めることが難しくなる場合。特に、相手のネガティブな想念に反応してしまっている時は、穏やかで落ち着いた状態の時には全く及ばないような考えが浮かんだり、恐れが触発されて不安感が高まったり、エゴに対してエゴで応酬してしまったり(喧嘩にも陥りやすい)と、あまり好ましい結果にならないのが普通です。
その人の想念に反応しているということは、多かれ少なかれ、その人の抱いている恐れや怒りなどの自我意識(エゴ)と似たものが自分の中にもあるということなのですが、なかなかそこには気づきにくいし、認めたくないものです。
まずはそういった想念の渦に巻き込まれないためには、想念が人一倍強い人とは距離を置くのが一番ですが、ただそれだけでは、また似たようなシチュエーションがやってきた時に(それは必ずやってきます)何の解決にもなりません。
私の中の何かがその人の想念に反応して動揺しているのだから、その何かが解決されないうちは、またいつかどこかでそれが刺激された時、再び動揺の渦に巻き込まれることになるでしょう。
大抵は、その人の執着と自分の執着は、根本部分で同じ種類のものです。執着の度合いは異なるかもしれませんが、ベクトルは同じであることが多いです。人よりも秀でていたい、人に認められたい、賞賛されたい、バカにされたくない、負けたくない。
こうした欲は誰もが内に抱いているものですが、そうした欲望を自分の行動の規範にするのか、それとも、エゴの声と魂の声とを切り離して考えるのか。エゴの声を聞くのは慣れていますし、世の中で多くの人が陥っているエゴベースの競争の波に流されるのはたやすいです。けれど、エゴの声を原動力としたボルテックスに自分も巻き込まれていけば、恐れや怒り・不満などが増長されることがあっても癒されることはありません。欺瞞と自己満足、見せかけの豊かさや優越感などは、現世的な充足は与えてくれるかもしれませんが、本当の意味での心(魂)の充足感を与えるものではありません。目に見えるゴールなど、真の幸せとは全く関係ありません。むしろ、形に執着する心をいかに解放していくか、手に入れるよりもいかに手放していけるかが、真の安寧と充足感に繋がっていく唯一の道だと思います。
自分がどの道を選ぶのか、決意が固まっていない状態だと、他人の想念の渦、つまりエゴのパワーに飲まれやすくなります。他者に力づくで引っ張られているようで、本当は自分の内面のエゴに屈しているだけです。
もし、自分がエゴの声を聞かずにぶれない信念を保ち続けることができたら、どれほど想念のパワーが強い人が目の前に現れたとしても、迷うこともなければ、動かされることもありません。内面の城を頑丈にすればするほど、外野の声は入ってこられず、たたくこともできず、次第に攻撃することを諦めて退散していくでしょう。
中学生活にも少しずつ慣れてきた娘ですが、慣れてきたらきたで、友達との関係や部活の先輩との関係など、様々な試練も出てきているようです。
いつも娘用のトリートメントボトルには、その時の様子を見て私がいくつかブレンドして入れているのですが、今回は、オーストラリアンブッシュの「ボウヒニア」「フレッシュウォーターマングローブ」を入れています。前者は、新しいものや人、環境などを受け入れる力を高め、自分とは異なる慣習や考え方をもつ人に寛容になるためのエッセンス。後者は、偏見や固定観念を解きほぐしてくれるエッセンスです。
今まで出会ったことのないタイプの人や、経験したことのない出来事に日々遭遇している娘が、自分の置かれている状況にどう対応したらよいのか、どうしたらうまくつきあえるのか、暗中模索している様子だったので、選んでみました。
飲んでから1週間ばかり経った頃、娘が
「お母さん、あの”受け入れる”っていうの、すごいね」
と言ってきました(娘にはエッセンスの効用をわかりやすく伝えてありました)。どうしてそう思うのかと聞くと、部活でどうしても苦手意識を持ってしまっていた友人と、最近うまく付き合えるようになってきたのだそうです。
なんでも、一緒に部活の準備作業をしていた時、作業をしながらいろいろな話をしたそうです。すると、話が弾み、雰囲気が良くなって、「楽しかった」とのこと。それと共に、それまでその子に対して抱いていた偏見もほぐれ、自分が誤解していた部分があったことにも気づいたのだそうです。
苦手だなと思っていたり、良い印象を抱いていなかった人と実際に会って話をしてみると、自分が考えていたような人ではなかったことに気づき、今までどうしてあんな風にネガティブに見てしまっていたんだろう、と反省することはたくさんあります。コミュニケーションをとることで、その人の立場や考え方への理解が深まり、一方的な価値観で見ることをしなくなるからだと思います。また、事前にあまり良くない噂を聞いていた人と実際に触れあってみたら、他の人たちが言っているのとは異なる印象を受けることもあります。その人がどのような理由でどのような思いを抱いているのか、理解したい、わかりたいという姿勢でいると、相手も心を開き、ハートとハートのコミュニケーションが起こりやすくなります。
大抵、他者に対する偏見や誤解はマインド(頭)によって生じています。マインドは、事前にあれこれと理論武装をし、自分を正当化したいがために他人を悪者に仕立て上げる傾向があります。人を受け入れるためには、このマインドが創り出している偏見を打ち壊さなければいけません。偏見は、自分を客観的に見つめない限り、自分の中にあることにすら気づかないものです。頭のおしゃべりに圧倒されている状態は、マインドが優位に立っているということです。その状態では、他者への理解はまず生まれません。マインドレベルから抜け出して初めて、ハートで感じることができます。そして人は、ハートでしか人を受け入れることはできません。
「今」、自分の心の中でモヤモヤと渦巻いている悪しき感情。ストレスやトラウマ。人間関係の悩み。
少し引いた目でそれらを眺めてみてください。
その悪しき感情を、人生の中で一番最初に感じたのはいつですか。そのイライラや怒り、悲しみ、嫉妬、恐怖を初めて味わったのはいつのことですか。
多くの場合、最初の経験の記憶は、幼少期にまで遡ることになるでしょう。人が繰り返し味わう苦しみや悩みは、大元となっている経験があり、その時にしっかりと感情を消化することができなかったために、何度も似たようなシチュエーションが起こることになります。
戦場から帰還した兵士や大きな災害を経験した人など、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている人の心に向き合ってみると、実はその人が戦場や災害現場で味わった恐れや悲しみなどの感情が、幼い時のショッキングな経験に端を発していることがあるそうです。
幼少時、感情が大きく揺り動かされるような出来事があった際、多くの子供は、その感情を素直に出すことを禁じられます。「怒るんじゃありません」「そんな風に騒いではダメ」「我慢しなさい」「どうして泣くの」etc...
あるいは、敏感な子供であれば、親や周囲の大人達の反応を見て、自分が素直に感情を表現してはいけないんだ、感じてはいけないんだと考えます。そして、感情に蓋をして、それらを”感じなかった”ことに、”なかった”ことにする習慣が身についていきます。湧き上がってきた感情を否定したり、そんな風に感じている自分は悪い子だ、と考えるようになります。
けれど、どんな感情も生じるべくして生じています。感情はその人の思考・信念の表れです。その人が考えていることや価値を置いていることをベースに、引き金となった出来事と反応して、自然発生的に産み出されています。自然に出てきているものを、本来止めることはできません。なかったことにするということは、自分に嘘をつくということです。
その時に素直に感じなかった感情は、行き場を失って深層意識に蓄積されていきます。消えるわけではないのです。そして、その感情がきちんと消化され、受け入れられる時が来るまで、繰り返し繰り返し、その感情を味わうようなシチュエーションが起こります。
自分が過去に味わった恐怖や悲しみ、その他あらゆるネガティブな感情を追体験するのはキツイですが、一度表に出してきちんと向き合わないうちは、いつまでも自分の中に残り続けます。今後似たような状況に繰り返し悩まされ続けることがなくなると考えれば、勇気を出してきちんと自分の感情に向き合ってみる。”あの時”の自分が本当はどのように感じていたのか、否定せずにしっかりと感じてみることで、心の重荷とネガティブなパターンから解放されていきます。
原体験となっている、幼少時の出来事にフォーカスすることがポイントです。
自然界の一部でもある私たち人間は、意識しているいないに関わらず、自然のサイクルに影響を受けています。太陽の動きもその一つです。
午前中から夕方にかけて、私たちはマインド(頭)が優位の状態です。大体17~18時頃を境に今度は感情が優位に立ち、マインドはおとなしくなっていきます。切り替えのタイミングにあたる夕方(14~16時頃)は、私たちが一番疲れを感じる時間帯と言われています(この時間に眠くなったりしんどさを感じる人は多い)。
午前中はマインドが優位なので、知的な作業などには向いていますが、何分頭のおしゃべりも活発ですので、内省にはあまり向いていません。もし、今の課題や悩みに向き合い、深く内観をして解決策を導こうとするのであれば、朝よりも夜に行う方が効果的です。その際、思考を一度クリアーにして頭のおしゃべりを鎮めるためにも、まず瞑想を行うのがお勧めです。内なる声に繋がりやすくなります。
フラワーエッセンスにも、頭のおしゃべりをなだめてその人のエネルギーフィールドを浄化してくれるものがたくさんあります。
頭がパンパンで、思考がとめどなくやってきている状態では、悩みの本質を突き止めるのは難しいです。マインドは解決策を知っているわけではないからです。頭のおしゃべりは、どんなものであっても、直接悩みの解決に導いてくれることはありません。
本質的な答えは、私たちのハート、魂の声が教えてくれます。魂の声はどうやったらきけるのですかと言う方がいますが、マインド(頭)の声と内なる声の違いは本当に明らかです。少なくとも、頭のおしゃべりが魂の声でないことはわかると思います。ですので、まずは頭のおしゃべりを鎮めること。それをやってみるだけでも、内なる声がより明瞭になってくると思います。
何かを選択する時、それが恐れ・不安に基づいた決断なのか、それとも自分の直観からくる決断なのかで、受け取る結果が異なってきます。
頭(マインド)の声を聞いてると、不安や恐れに基づいた判断になりがちです。それに対して、直観やインスピレーションに基づいた判断というのは、明確な理由や根拠がないにも関わらず(時には常識からは考えられないような突拍子もないアイディアであったりします)、なぜだか知らないけれど自分の深い部分で”こうするべきだ”とか”こうした方が良い”ということがなぜか「わかる」という感覚です。こちらの方がより高い次元と繋がった情報なので、宇宙の波に乗った、よりスムーズで迷いのない方向性に導かれます。
前者は、判断の基準が恐れという低いバイブレーションのものなので、魂の望みや宇宙の流れに必ずしも調和したものとは限らず、本来の進むべき道から外れてしまったり、結局うまくいかなくて大きな痛手を被ることになったりします。
そもそも恐れていることのほとんどは、根拠がないものか、実際に起こらないことか、自分の力ではどうしようもないことです。もしそれが本当に起こったとすれば、自分が抱いていたその恐れがまさしく現実化してしまったか、抗えない大きな力が働いているということです。手放してしまった方が身のためだし、気が楽です。
ためしに、10年前の自分が抱いていた不安や恐れを思い出してみてください。そのうちのどれだけが、実際役に立ったでしょうか。そのうちのどれだけが現実に起こったでしょうか。そして、その時自分が不安に支配されていたことで、何か大切なことを見過ごしてはいませんでしたか。
あの時から10年間、こうして無事に過ごして来られたのですから、何も問題はなかったといえるのではないでしょうか。もちろん大小様々なトラブルはあったかもしれませんが、今こうしてここにいられるということは、自分はそれらを全て乗り越えてこられたということです。それだけの強さがあったということです。つまり、10年前に抱いた不安や恐れは杞憂に終わったということです。あの時の自分は、問題が起こった時に、それに圧倒されて立ち行けなくなることを恐れていたわけですから。自分の強さを信じられなかったのです。
20年前はどうでしょうか。その時にもいろいろな不安や恐れがあったと思います。今思い返してみて、それらを抱くに値するメリットは何かあったでしょうか。
そして私はこうも思います。今から10年後、20年後、30年後(もしその時まだこの世にいたらの話ですが)、振り返って今の自分を眺めてみたとしたら、今の私が抱いている不安や恐れが、いかに意味のないものだったか、きっと未来の私は鼻で笑っていることでしょう。そんな暇があったら、もっとポジティブな未来に目を向けて今を楽しんでいた方が100倍得だよと、未来の自分は過去の自分に言ってあげたいのではないでしょうか。
恐れや不安というのは、引っ張る力が強いので、ともすればそちらにどんどん吸い寄せられて、恐れベースの判断をし続け、悪循環に陥っていく危険性があります。ネガティブエネルギーに飲み込まれないためにも、自分が下している判断が一体何に基づいているのか、意識的になってみるといいかもしれません。
自分の中で漠然と抱えているモヤモヤが一体何なのか。そもそもそれがわからないからモヤモヤしているわけなのですが、その正体が分かった時に、解放のプロセスが始まります。
自分の中にあるモヤモヤの理由が分かった時。例えばそれは”不安”だったり、”悲しみ”だったり、”寂しさ”だったり、”憎しみ”や”嫉妬”だったり。より具体的に名前がついた感情であることが判明した時、まるで堰を切ったようにその感情があふれ出てくることがあります。その時に、決してその感情が自分の中にあることを否定しないことです。それは、ようやくスポットを当てられた感情が、存在を主張してきている瞬間だからです。認めましょう。その感情を私が抱いていることが紛れもない事実であることを、受け入れましょう。ただ、「ある」ということを認めるだけです。否定している間は、解放されるどころか、ますますその感情のネガティビティに支配され続けることになります。
感情には、不思議なことに、受け入れた瞬間一時的に大きくなり、その後消えてなくなっていく性質があります。そしてその時、感情が持っているメッセージに気づくか気づかないかが、その後繰り返しその感情に悩まされるか、それともその時限りで解放されていくかを決定します。感情には、伝えたいメッセージがあるのです。
自分の感情に冷静に向き合うためには、感情に支配されている状態ではまず無理です。感情に負けてしまいます。感情がある次元よりも高い次元から眺める必要があります。
1人心を落ち着ける静かな場所を作り、こんな感じで祈るといいでしょう。
”私にこの感情の正体を理解させてください。そしてそこから何を学ぶべきなのかを教えてください。私がなすべきことを教えてください。理解したら、私を苦しめている感情を、神の恩寵によって溶かしてください。”
自分が抱えている苦しみや悩みを解放するのは、私という個人の力ではありません。もっと高い次元の力が働いて、その恩寵がやってきて初めて、私たちは理解することができるし、縛りから自由になることができます。そこへたどり着くために、より高い次元での助けを求め、解放へのプロセスの準備が整った意思表明をすることが、祈りだと思っています。
パチンコ屋さんの前を通ると、一瞬開いた扉の奥から、けたたましいまでの騒音が漏れてきます。かつて聞いた話なのですが、パチンコ屋さんというのは、あえて1人1人の座るスペースを狭く作ってあるのだそうです。狭い場所で、一点を見つめ続けることで、人は視野狭窄状態になり、思考が鈍ります。ひたすら玉を打ち続ける依存状態からなかなか抜け出せられなくなる環境を、計算して作ってあるのです。
また更に、あのような耳をつんざくほどの大きな音を流し続けることも、思考停止状態を作るのに一役買っているように思います。人は絶え間ない騒音を浴びせられると、脳が疲弊し、機能が低下します。尋問や拷問などで、あえて騒音を聞かせ続けたり睡眠を削ることで、脳が正常に機能することを阻害し、人の意思力や抵抗力を奪うという手法が用いられることがあります。
私たちがまともな判断力と思考能力を持つためには、脳をしっかりと休め、正常に働く状態を維持することが不可欠なのです。
少し前に、ある有名企業に就職したばかりの新入社員が、非人間的なプレッシャーと環境の下で過重労働を強いられ、肉体も精神も疲弊仕切って生きる気力を失い、自ら命を絶つという痛ましい出来事がありました。新人にも関わらず過酷なまでの仕事量を与えられたその社員は、休日も返上で会社に通い、睡眠も限界まで削って仕事にあたっていたそうです。
人の脳は、疲労やストレス、不眠、低栄養状態に置かれると、伝達物質がうまく分泌されず、正常に機能できなくなります。もっぱら受動的、機械的な処理だけが行われ、言われるがまま、されるがままの、主体性を欠いた言動をするようになり、抵抗する気力も失せてしまいます。
閉鎖的な環境において、過度のストレスと仕事量を与えられ、睡眠も削り、肉体も疲労困憊している中で、まともな精神状態を維持するのは至難の業です。
人間にとって休息とは、肉体を休めるためだけでなく、思考力と判断力を鈍らせないためにも重要なものなのだなと思います。疲れている時ほど、ものの見方や考え方がネガティブになり、明るい展望が描きにくくなります。一晩ぐっすり眠ったら、気持ちも頭もすっきりクリアーになって、昨日までのモヤモヤした思いがどこかに行ってしまった、なんてことはよくあります。私たちの肉体と精神は密接につながっているので、気力だけで何とかしようとせずに、肉体も大切にしてあげなければいけないなと思います。
アンジェリックエッセンスの”Discernment”(ディサーンメント)は、「洞察、識別」といった意味です。受け取る情報で、何が真実で大切かを見極める能力を高めてくれるエッセンスです。
私たちは今、情報過多ともいえるほど、様々な媒体から流れる膨大な量の情報に晒されています。
人間の脳の特徴として、人が一度に処理しきれない程度の量の情報を浴びせられると、脳が一時的にオーバーフロー状態となり、その情報の質を吟味したり、真偽を冷静に判断する処理能力が落ちるのだそうです。そして、与えられた情報をただただ受け身で取り込み、考えることなく鵜呑みにしてしまったり、言われた通りに動いてしまったりということが起こります。
実際、そのメカニズムを応用した洗脳方法が、宗教やテロ組織、思想集団などによって利用されてきました。人間の脳の処理能力の限界を巧みに使って、相手の抵抗力と判断力を奪い、こちらにとって都合の良い思想を植え付けたり、言動を引き出したりするのです。
そこまで強制的に洗脳されているとまではいかなくても、毎日膨大な量の情報を闇雲に浴び続けている環境は、まともな判断能力と思考能力を削ぐ一因となり得ます。特に子供は、与えられた情報をそのままに受け止める傾向が強いので、大人以上に晒される情報の質と量には注意をした方が良いかもしれません。
私にも経験があるのですが、ある事が気になって、あれこれと情報を求めているうちに、情報の膨大な量に圧倒され、一体何が正しくて何が間違っているのか、どの考えを受け入れれば良いのかがわからなくなり、かえって混乱してしまうことがたまにあります。
第一子が生まれたばかりの時など、子育てに対する自信のなさと不安から、育児本を読み漁ったものですが、様々な人が唱える様々な説に翻弄され、安心感よりもむしろ不安感の方が増強された記憶があります。
情報が自分の周りで氾濫し、混乱している時こそ、一度情報の海から身を引いて、静かな場所でクールダウンすることが、主体性を引き戻す一つのステップになります。不安な時ほど情報を求めたくなりがちですが、過剰な情報収集はかえって答えを見えにくくします。
私たちには本来、自分の力で物事を判断し、決断する力が備わっています。適度に適切な情報さえ与えられれば、何が自分にとって正しい道なのか、己の内なる声に耳を傾けるだけで、自然と答えが見えてくるものです。そのためには、脳のオーバーフロー状態を避けることと、心を鎮める状況を作ることが大切になります。
情報の洪水から意識的に身を守ることも、今の時代においては必要なのかなと思います。その気になれば、いくらでも情報を受け取ることができる環境にいるからこそ、上手に付き合う術を身に着けることが大事です。
やってくる情報にまともに対峙するためには、こちらもしっかり軸を保っていなければいけません。情報の量や刺激に圧倒されて思考停止状態にならないためにも、心にゆとりを持ち、冷静に受け止めて取捨選択したり、内容をかみ砕いて理解し、自分の糧としていきたいものです。
ヴィクトリア時代のジャーナリストであった、ヘンリー・メイヒューという人は、産業革命下に生きるロンドンの貧しい民衆の生活を、一冊の本にまとめました。綿密な取材と鋭い観察による詳細な記述は、そこに描かれた人々がまるで今でも生きているかのように思われるほど克明で、当時の庶民の生活と環境が生き生きと伝わってきます。
当時イギリスは、産業革命と植民地支配によって『世界の工場』と言われる程の経済的繁栄を築き上げていましたが、社会の底辺に生きる貧しい労働者たちの生活は、本当に悲惨なものでした。
ロンドンの中心部を流れるテムズ川周辺には、潮が引いた後、川が運んできた数々のゴミやがらくたの中から金目の物を探して見つける「泥ひばり」と呼ばれる少年少女たちの姿が見られました。少しでも売れそうな物を見つけると、それを拾い、わずかなお金に換えてその日の食べ物を買うのです。彼らは、浪費もしくは災難によって極貧状態に陥った親の子供達か、孤児でした。6歳にも満たない子供達もたくさんいたそうです。
メイヒューは、その中の1人の少年に目をかけ、話を聞きます。その少年は14歳で、泥ひばりの生活を3年ほど続けていました。父親は事故で何年も前に亡くなっていました。母親は小さな八百屋を営んでいましたが、ジャガイモが腐る病気が流行ったために店が立ち行かなくなり、更に熱病にも罹って働ける状態ではなくなったため、息子の収入に頼らざるを得なくなってしまったのです。メイヒューが少年に出会ったのは真冬でしたが、まるで裸同然の恰好で、裸足の足はしもやけだらけでした。ボロボロのズボンをたくし上げて泥の中を歩き回る日々で、時々ガラスの破片や釘が足に突き刺さるのですが、そんな時は家に帰って怪我の手当をし、またすぐに仕事に戻るのでした。何も拾えなかったら、その日の食事にありつけないからです。
メイヒューの胸を打ったのは、その少年の真摯で素直な態度でした。そんな極貧でみじめな生活を送りながらも、少年は誠実さと、希望を失っていなかったのです。少年の母親に話を聞きに行くと、涙を流しながらこのように語りました。
「あの子はあれだけのお金を稼ぐのに大変な目にあっていたのに、いっさい文句も言わず、それどころか少し肉を買えるくらいのお金を持って帰ってきた時には、自慢げにしていたくらいですよ。わたしが落ち込んでいると、時々それを見て、あの子は私の首にまとわりついて、ぼくが神様を信じていれば、きっといつか神様がぼくたちに目をかけてくれるよ、と慰めてくれるのです」
メイヒューは、少年に次のように質問しました。君は本当に違った生き方をするつもりがあるのか、と。すると少年は、きっとそうするつもりです、だからぜひとも自分を試して下さいと答えました。
その話をメイヒューの知り合いにしたところ、その人がある有名な印刷屋に勤め口を見つけてくれ、少年はそこで働くことになります。非常に真面目に良く働いたので、少年はたった数週間で賃金を上げてもらい、息子の努力のおかげで母親も小さな店を持つことができたとのことです。
今から150年ほども昔の出来事ですが、少年の純粋な魂と希望の持つ力が、時空を超えて胸に訴えてくるかのようです。
この話を読んだ時、私は福音書に出てくる、ある言葉を思い出しました。
イエスが群衆の前に行くと、ある人がイエスに近づいて跪きました。息子の癲癇を治してもらいたかったのです。以前、イエスの弟子たちの所に連れて行ったのですが、息子の癲癇は治りませんでした。するとイエスは次のように答えます。
「ああ不信仰な、腐り果てた時代よ、私はいつまであなた達と一緒におればよいのか。いつまであなた達に我慢しなければならないのか。その子をここに連れてきなさい」
そしてイエスが悪鬼を𠮟りつけると、悪鬼が出て行き、その子は治ります。弟子たちは後でイエスに質問します。
「なぜわたし達には悪鬼を追い出せなかったのでしょうか」
イエスは答えます。
「信仰がないからだ。アーメン、私は言う、もしあなた達にからし粒ほどでも信仰があれば、この山に向かい『ここからあそこに移れ』と言えば移り、あなた達に出来ないことは一つもない」
(マタイ17.14-21)
イエス様が言っていた「信仰」というのは、”信じる”心のことを言っているのではないかと私は思っています。信じるということは、自分と神様との太いパイプを築き上げることです。
そして、信じる気持ちというのは、人が困難な状況にいる時ほど、抱きづらくなるものです。信じる気持ちがなくなった時、人は希望を失い、絶望と悲しみの中で身動きが取れなくなります。やる気も行動する気力も低下するので、不幸のドツボにハマり込んだような錯覚に陥ったまま、何かを変えようとする努力さえしなくなります。
私達が試されるのは、こんな時なのかもしれません。希望の光が全く見えないような環境の中にいながらも、いかに自分を保ち、希望を抱き続けることができるか。信じる気持ちをどれだけ強く持つことができるか。周りの環境に惑わされず、自分と神様との関係を強く感じていれば、迷うことも諦めることも、自分にはできないと決めつけることも、なくなるのかもしれません。
(参考文献:『ロンドン路地裏の生活誌』ヘンリー・メイヒュー著、原書房)
フラワーエッセンスには、「豊かさ」をテーマにしたものがいくつもあります。様々なメーカーから出ていて、中には知る人ぞ知る有名エッセンスとなっているものもあります。
それぞれ特徴はありますが、私の感覚としては、「豊かさ」をテーマにしたエッセンスを飲んでいると、”欠乏感”や”足りていない”という感覚が確かに薄らいでいくようです。満ち足りている感覚が得られるので、結果、思いがけない現金収入があったり、人から贈り物をもらう機会が増えたり、仕事が見つかったり、豊かさに結びつく出会いがあったりと、現実的な豊かさに結びついていくことが起こりやすくなります。
また、飲んでいるうちに、「豊かである」という感覚が得られなていないのはなぜなのか、自分の中に潜んでいる豊かさの妨げとなっているブロックにたどり着く場合もあります。自分がどこかで”満たされていない”と感じていたり、”欠けている””足りていない”という思いが常にあったり、もしくは、”自分は豊かさを手に入れる資格がない””豊かになるためには何かを失わなければいけない””豊かさを求めることは卑しいことである”といった定義づけを無意識に行っていることもあります。
いずれにしても、大元に潜んでいるこうした元凶にたどり着かないうちは、エッセンスを飲んで一時的に欠乏感がなくなったとしても、飲み終わってエッセンスの効果が薄れ始めると、結局また元の状態に戻ってしまいます。問題の表面だけにしか向き合っておらず、自分を豊かさから遠ざけている根本原因が未解決のままだからです。
「豊かさ」をテーマにしたエッセンスに限らず、どのテーマのエッセンスを飲んでも、結局は自分の内側に深く入って心を見つめる作業を怠っているうちは、エッセンスの効力も表面上にしか効かないような気がします。そして、エッセンスのパワーがなくなってしばらくすると、再び似たような問題が浮上し、過去と同じパターンを繰り返すのです。
悪しきパターンのサイクルから抜け出したかったら、エッセンスにどうにかしてもらおう、という依存的な考えではなくて、エッセンスの力を借りて私の心の奥にある元凶を探り当て、それを手放そう、という心持ちで挑む方が結果的に早く解決に導かれます。病気になった時、痛み止めを飲んで一時的に楽になったとしても、病気の大元が癒されない限りは同じ症状が繰り返しやってくるのと同じです。
痛みは悪ではなく、病気の存在に気づかせるアラームのようなものです。それと同じように、現実生活の中で浮上している”問題”は、自分の奥底に眠っている不必要な縛りの存在に気づかせるために起こっているものだったりします。”問題”に真摯に向き合っていくと、自分の心に潜んでいる信念や執着、固定観念の存在に気づいていきます。今現象として起こっている問題に対して、私の何が抵抗しているのか。何を手放せば、私はこの現象を”問題”として見なくなるだろうか。今は不愉快でしかないこの出来事を、ただ起こっている現象として中立的に眺め、あるがまま受け入れるためには、私に何が必要なのだろうか。
エッセンスを飲んでいると、そうした気づきに導かれやすくなりますし、手放しも楽に行えるようになります。ただ、結局自分の意思の力と決断によって、心のお荷物を捨てる覚悟がないうちは、表面的な現象に一喜一憂したり、何かに頼ってうまくいかないことをそれのせいにしたりと、同じ場所を行ったり来たり、成長がないままのような気がします。苦しみの原因は外側ではなく、自分の内側にあります。そして、そこに取り組めるのは、自分しかいません。他の誰か(何か)が代わりにお荷物を取り去ってくれることなんて、絶対にないのです。
憧れの(?)中学生となり、新生活に馴染むべく日々奮闘している娘。部活を何にしようか、目下お悩み中のご様子です。入学前から、ある部活(A部)に入る!と豪語していたのですが、何日か見学してみたところ、イメージと違っていたようで、違和感を感じるようになってしまったようです。極め付けは、同じ部活の一年上の先輩(小学校も同じだった)に、やや素行の悪い人がいること。小学校時代から何かと問題行動が多く、違う学年の子達の噂にも上るほどだったとか。
しかもその先輩は娘とは帰宅方向が同じなため、部活の見学の帰りにいつも「一緒に帰ろう」と声をかけられるとのこと。わざわざ家の前までついてきたり、ある時はお金をせびられそうになったので、慌てて振り切って帰ってきたのだそうです。
昨日、浮かない顔をして「私やっぱりB部に入ろうかな・・」というので話を聞いてみると、そんなことが明らかになりました。「私、あの先輩と二年間も一緒だったら、ストレスでおかしくなると思う」。
・・・という話を、夜遅く帰ってきた主人に報告してみました。すると、ふんふんと聞いていた主人の反応があまりにも普通なので、あれ、娘のことが心配じゃないのかなと疑問に思いました。そしてハッと思い出したのが、そういえば主人は、地元でも札付きの悪が集まる荒れた中学校で青春時代を過ごしたのだった、という事実。
主人の実家がある場所は、「東北のシカゴ」とも呼ばれる地域。暴力団の抗争事件などが地元ニュースに度々上がるような場所でした。”団員”達の子息も数多く通う公立の中学校での三年間では、ドラマ顔負けの出来事が日常茶飯事だったそうです。シンナーの吸い過ぎで歯が溶けている人が何人もいた、トイレに入ったらそういう人達から「お前も吸う?」と袋に入った液体を見せられた、同級生の女の子で妊娠そして中絶した人がいる、校内で対立する二つの不良グループが暴力事件を起こし、誰かがスコップで頭を勝ち割られて流血し新聞沙汰になった、卒業してから数年後かつて不良だった同級生にたまたま出会ったら極道に入っていた、etc...そんな話を昔からたくさん聞いてきたのでした。主人曰く、「オレはあんな環境でよくまともに育ったと思う」。
そうなのでした、そんな主人にしてみれば、お金を無心してくる先輩など「大したことない」部類のワルなのでした。「オレだって不良からカツアゲされたこと何度もあるし」。
「オレの中学時代に比べれば、全然大したことないよ。普通普通。そのくらい社会勉強として経験しといた方がいいよ。オレああいう経験したおかげで、強くなれたもん」
たくましい。実にたくましい。そうだ、人はそういう経験をすると、強くなれるのだ。私は妙に納得し、心配で気をもんでいた気持ちがスーッとほぐれていくのを感じました。人は一度怖い経験、ショックな体験、辛い経験をすると、同じことが次に起こった時に以前ほど動じないものです。そういう経験をしたおかげで、前よりも強い自分になっているからです。
そう考えると、純粋培養で何の問題も起こらない環境に身を置くより、ある程度厳しい経験をし、”免疫”をつけた方が強い人間になれるのかもしれない。どんな問題が起こっても動じない逞しさがあれば、世の中を渡っていくのもたやすくなることでしょう。社会に出れば厳しい現実が待っている、それが世の中というものです。闇と光が入り混じった世界に身を置いている限り、闇だけを遠ざけて生きていくわけにはいきません。大事なのは、”闇”に出会った時、そこに対処する知恵をつけることと、乗り切る力強さを身に着けることです。そのためには、ただ”闇”を避けて生きていくより、”闇”を経験し、向き合い、乗り越える体験を数多くこなすことが何よりの勉強になると思います。
娘も、少しずつ社会の現実や世の中の闇に向き合う経験が増えてきました。人間としての強さを育んでいる時期なのだと思って、温かく見守っていこうと思います。
”嫉妬心”を表す英語の表現に、"green-eyed monster"というイディオムがあります。直訳すると、「緑色の目をした怪物」。シェイクスピアの戯曲で用いられた表現からきています。
実際に嫉妬に狂った人の目の色が緑色に変わるということはないのでしょうが、私たちの感情が瞳の中に宿り、そしてその宿った感情が私たちの物事を見る目にバイアスをかけるという原理は理解できます。激情のために、冷静な視点を見失うという心の状態が、目の色が変わった怪物という言葉で上手く表わされていると思います。
バイアス、偏見、で思い出すある出来事があります。学生の頃、日本に来たばかりの留学生の諸々のお手伝いをする、ボランティアサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルの命を受けて、私はあるフランス人留学生(男性)の学務手続きを手伝うことになりました。指定された日に待ち合わせの場所に行ってみると、その人はもうそこに来ていました。私が声をかけると、とても不機嫌そうな様子で私のことをジロッと睨み、むすっとした表情のまま、スタスタと歩き始めました。こんにちはもよろしくも、何の挨拶もないままです。私は意味がわからず、初対面のこの人から、なぜいきなり嫌悪感を抱かれなければいけないのだろうかと、かなり混乱しました。
その人としばらく一緒に過ごしてみて、私にはだんだんわかってきました。そのフランス人は、私という個人ではなくて、日本人、アジア人全般を小馬鹿にしていたのです。話す会話の節々から、態度から、私を見る目つきから、そのことが明瞭に伝わってきました(ではなぜ留学先に日本を選んだのかという疑問が湧いてきますが)。私が実体験として、人種や肌の色という分類で他人から差別的に扱われた、初めての経験でした。
偏見という言葉が表す通り、「偏った見方」は、物事を中立に眺めることを難しくします。また、嫉妬や怒り、悲しみ、恐れといった感情を抱いている時もまた、自分が目にする景色に色付けをすることになり、結果として物事を善か悪か、白か黒か、好きか嫌いかのような二分法的な見方で眺めることになります。全ての出来事は本来中立で、意味なんかありません。意味づけをしているのは、私たちの物の見方、観念、思い込み、クセ、感情です。
不妊治療に何年もの歳月を費やした女性が、治療中の精神的につらい時期、道で妊娠している女性や小さな子供連れの女性を見ると、嫉妬で怒りが湧いてきた、と話していました。全然知らない赤の他人に対してです。この場合、嫉妬の怒りを向けられた女性には当然ながら何の非もないわけで、怒りをぶつけられたとしても当然責任を感じる必要はありません。
こうしたことは、私たちの日常でたくさんたくさん起こっていると思います。いわれのない怒りをぶつけられたり、差別や偏見の目で見られたリ、羨望もしくは侮蔑のまなざしを向けられたり。逆に私たちの方が、街で見かける人に対して、バイアスのかかった目で見てはジャッジしたり、感情が動いたり、ということだってあります。
もし、今の私が、学生時代のあの時の自分(かなりショックを受けていた)にアドバイスをするとしたら、こんな風に言ってあげると思います。
「その人の態度を、個人的に受け止めなくていいんだよ」
あのフランス人留学生は、私という個人の資質や性格や人となりをみて、あのような冷徹な態度をとったわけではありません。日本人である私を見た時、差別的な物の見方、偏見、思い込み、私的な好みというフィルターを通して眺めたために、彼の中の侮蔑的思考が刺激され、感情が動き、中立的な立場をとる冷静さを失ってしまったのです。彼は、自分の心の内に潜んでいた闇を、私に投影して見ていたにすぎません。彼のそれまでの人生の過程で、時間をかけて、育まれていった闇でしょう。偏見や思い込みが強ければ強いほど、愛とは対極的な態度をとらざるを得なくなります。それだけ負の感情が膨れ上がるので、自分をコントロールすることが難しくなり、相手を思いやる心の余裕がなくなります。
誰かがもし、自分に向かって感情をぶつけてきたり、批判的なまなざしを向けてきたとしたら、それを私的に受け取らない方が身のためです。そんな風にいちいち他人から向けられる負のエネルギーを受け止めていたら、身が持ちません。本来、受ける義務も必要性もありません。
その人がこちらに向けてきている負の感情は、その人の個人的なものです。その人が抱えている個人的な問題や、個人的な偏見が生み出しているものです。私はたまたまその場にいただけで、その人の心を動かす刺激やきっかけとなったかもしれませんが、「原因」となったのは私ではありません。個人的に受け取らないことです。たとえ家族という身近な関係同士でも、です。
そして私たち自身も、他人や物事を見る時に、バイアスや個人的な問題・思い込みを通して見るのではなく、できるだけ中立の視点を保てるように努力したいものです。そうすれば、必要以上に感情に振り回されることもなく、冷静さをキープすることができます。そしてそれが、理解と受け入れにつながっていくのではないかと思います。
新しい生き方、自分らしい生き方をしようと決心すると、それまでため込んできた様々な思いや感情、過去に受けた心の傷、トラウマ、そういったものが一時的に噴き出してくることがあります。殻を破って次のステージに進むために、お荷物となる古い縛りから解放される必要があるからです。過去に引っぱられ、過去に執着し続けていると、自由で縛られない生き方をすることは困難です。
癒しと浄化の時期を経て(人生には休息も必要です)、それまで纏っていた重い鎖から解放されたら、あとは後ろを振り向かず、ただ前進するのみです。
この時に注意しなければいけないことは、常に現実的な視点をキープするということです。スピリチュアルな世界、精神世界に目覚めた人で、そちらの世界に意識が向き過ぎるあまり、現実生活との折り合いがつけられなくなっている方々がいます。そういう方たちは、文字通り宙に浮いているかのように不安定で、物理次元で起こっている出来事を受け入れられず、自分で作り上げた妄想の世界に生きているように見えます。似たような仲間同士でグループを作り、現実逃避ともいえるような儀式やらセミナーやらグッズに次々手を出しては、そういった自己決定能力が欠けている人をターゲットにしている商売人や偽教師たちの恰好の餌食になっていたりします。確固たる軸が定まっていないがために、自分の代わりに人生を決めてくれる存在を追い求め、利用され、中途半端な目覚めの状態に酔いしれているのです。アイドルに現(うつつ)を抜かしている(なんという的を得た表現でしょうか)十代の若者と同じです。
魂の成長の旅路は、空想世界を追い求めているうちは一歩も進めないままだと思います。意識が覚醒したからといって、毎日フワフワと夢見心地で何もせずにいられるわけではありません。もしそうだったら、一体何のためにこの世に生まれてきたのかがわかりません。
むしろ、魂を磨いて意識を向上させた人ほど、謙虚になり、この世の現実に向き合い、無償の愛で他者に尽くしているようにみえます。きっと、自然とそうなっていくのだろうと思います。イエス様やお釈迦様、その他過去の聖人たちの生き方をみてみれば、ああいう人々がいかに地に足の着いた生き方をしていたかがわかります。イエス様もお釈迦様も、人生の後半はほとんど全て、他者を助けることに身体と時間を使ってました。神様に身を委ねながらも、現実的な仕事をしていたのです。
思うに、本当に誰かの役に立ちたいと思うのだったら、妄想世界で遊んでいる暇はないのではないでしょうか。実際に手を動かさずして、一体誰を助けられるのでしょうか。魂の成長は永遠に続きます。この世に身を置いている限り、別の世界では生きられないこと、私たちは今ここで、具体的にやるべきことがあるから存在していることを受け入れて、現実を生きましょう。
気づきは、その人の準備が整ったタイミングでやってきます。人生において、それまでの生き方を根本的に変えていくことになる(トランジション)時期には、まず最初に様々な形で”きっかけ”がやってきます。内なる声、ガイダンス、ウェイクアップコールを聴いたり、事故や病気、アクシデントといった現象が起こることもあれば、何かとの別れが、新しい生き方へ移行するためのショック療法的な役割を果たすこともあります(逆に何かとの出会いがそうさせることもあります)。
どんな形でやってくるにしろ、一度気づきが起こって、その流れが始まってしまうと後戻りできないのが普通なので、腹をくくって運命に向き合うしかありません。外側で起こっていることなんかより、自分の内側で起きている現象にこそ、逆らえないものです。
この移行期には様々な葛藤、変化、感情の浮き沈み、出会いと別れ、などが起こりがちです。そんな時こそ、自分という軸にしっかりと納まり、グラウンディングをして、1人静かになれる場所と時間を作って内観することが助けとなります。そうすることで、本当は誰もが繋がっている、大いなる存在に対する信頼感が高まり、自分は何があっても大丈夫だ、信じる道を進めば良いのだ、という揺るぎない確信が持てるようになるからです。外側で起こっていること、外部の声に必要以上に惑わされないためにも、1人でいることが大きな意味を持つこともあります。
魂を磨く旅路において、人がある段階に達すると、様々な「お試し」のようなものがやってきます。このお試しは、魂が更に磨かれていくための通過儀礼ともいえるもので、ここでふるいにかけられ、堕ちていく魂もあれば、上昇を遂げていく魂もあります。後者の方が狭き門であることは言うまでもありません。魂の旅路でやってくる数々のお試しは、人のエゴを上手にくすぐるテクニックをうまく心得ています。この罠に引っかかる失敗は、誰しもが一度は経験するものです。
魂磨きの旅で人が陥りがちなトラップや、障壁となるシチュエーションをいくつかご紹介します。
①孤独
魂磨きの旅は、基本的に孤独です。ただし、現世的な見方をすればですが。私たちは、身近に全く同胞がいない状況で、ただ1人、自身の内側から湧き出てくる声だけを聴いて進んでいくことになったとしても、ぶれずにいるタフさが必要です。大いなる力とのコネクションを強くし、信頼し、身を委ねる勇気を持つことが求められます。また、どんな障害がやってきてもそれを乗り越えていく気力と意思の力も試されます。現実生活として、孤立するということを言っているのではありません。現世的なコミュニティーに属していたとしても、内面的な決断と選択は、常に個人的に行われるものです。
②虚栄心
これは、ある一定レベルの魂の進化を迎えた人々が、皆直面している障壁だと思います。私たちが虚栄心の罠にはまるかはまらないかを見極めるために、敢えて権力や特殊な能力を授けられることだってあります。人より何かが秀でていたり、富や力を得たり、崇拝されるような立場にいる人ほど、この虚栄心の罠には注意しなければなりません。この段階で、かなり多くの魂が脱落していっていると思います。謙虚さを失わないために、常に自分を戒める必要があります。
③依存
魂の進化の旅路は、ステップアップしていくほどに先人の数が少なくなります。自分が進んでいる方向性が合っているのかどうか不安になると、一見自分よりも「先」を進んでいるかのようにみえる、教師やグルに頼りたくなるものです。けれど、教師やグルだと思っている人が、まだまだ虚栄心の虜になっている段階にいたり、そもそも教師やグルのフリをしている詐欺師だったりすることさえあります。お互いの恐れとコンプレックスがうまく引き合うと、共依存の関係に陥りやすくなるので注意が必要です。面白いことに、人が共依存の関係に陥っていく時というのは、お互いが無意識の場合が多く、関係が切れてからか、もしくは切れる直前に片方が気づくというパターンが多いです。依存の関係を終わらせるためには、かなりのエネルギーを必要とします。
④焦り
一度真理の道に目覚めると、先へ先へと急ぎたくなるものです。けれど、落とし切れていない垢がまだあるうちは先へ進んでも混乱するだけですし、癒すべき傷が癒えていないのに次へ進もうとしてもつまずいて転ぶことになります。一気に坂を上ろうとしたり、近道をしようとしたり、ドラマチックな変容を望む気持ちもまたエゴです。与えられたタイミングで、愚直に目の前の課題をこなしていく忍耐強さと、謙虚さを持ちましょう。
⑤期待
私たちはとかく未来をあれこれ想像して、こうありたいとか、こうあるべきとか、華々しい妄想を抱きがちです。けれど、こうなったからああなるとか、こうすればこれがもらえるとか、方程式のように答えがやってくることをはなから期待しない方が身のためです。いずれ失望することになるかもしれません。この世はそう単純なものではないからです。世の中で起こっているネガティブな出来事や、人の未熟な点をあげつらっていても気分が沈むだけです。それがこの世というもの、それが人間社会というものです。そして、自分もそんな人間の一人です。できないこと、足りてない部分にばかりフォーカスし、完璧な姿じゃないことに失望するのはナンセンスです。人間なんだから欠点や裏表があって当たり前です。みんなそうです。そういうものです。今の自分を受け入れて、今やるべきことに集中しましょう。
また、他人に対しても、こうなってほしいとか、この人はこうあるべきだとか、過度な思い込みや期待は最初から持たないことです。たとえ家族のような身近な存在であっても、その人の人生と選択を、尊重してあげましょう。自分は今、その人の世界をのぞかせてもらっているのです。
トラップは実に巧妙なやり方で、私たちの意思を試してきます。忍耐、忍耐、忍耐。謙虚さ、手放す勇気。内省と洞察。疲れたら立ち止まりながら、自分のペースで、謙虚に、淡々と、旅路を進んでいきましょう。神様は、その人にこなせない課題は決して与えません。その人の準備ができた時に、乗り越えられる範囲の試練が与えられます。
アンジェリックエッセンスの、『Living One's Truth』(リビングワンズトゥルース)。次のようなエネルギーが入ったエッセンスです↓
『 自己の真実を生きる。個人の力を強めるためのエッセンス。自分にとっての真実とは何かを知り、(たとえ過去世からのトラウマや今生での抑圧によって、その真実から切り離されていたとしても)勇気と確信をもってそれを語り、それに従って生きることができるように助けてくれます。のどの周辺を開き、弁解せずに自己の真実を語ることをサポートします。その結果、自分本来のパワーへとより深くつながっていけるようになります。このエッセンスは、自分にとっての真実に従う能力を高めます。すべてのチャクラ(特にのどと太陽神経叢)を開き、サトルボディを一時的な整合状態に置きます。』
㈱ネイチャーワールドHPより抜粋
自分にとっての真実とは何か。周りがこうだからとか、一般的にそうするべきだと思われているだとか、家族がこう言っているからだとか、本当の自分以外の声を聴いてばかりいると、だんだん自分にとっての真実から遠ざかった生き方になっていきます。それはとても息苦しく、窮屈な生き方です。そして、本来の生きる目的のルートからもどんどんずれていきますので、物事がうまく回らなくなったり、アクシデントばかり起こったり、精神的・肉体的な不調が生じたりすることになります。結局、本当の自分らしく生きることが、その人の人生が最もスムーズに流れるための鍵となるのですが、私たちはなかなかそこにたどり着くことができません。それまでの人生(特に幼少~青年期にかけて)において植え付けられた様々な信念や、自ら抱いた固定観念の縛りを強く受けているからです。
私たちはものごとが思うようにいかない時、とかく自分以外の誰かのせいや、環境のせいにします。けれど、現象として起こっていることは、私たちが深層意識で抱いている信念が表に出ているにすぎません。
「本当はこうしたいのに、○○がこうだからできない」。それは、○○のせいでそうなっているのではなくて、「私はこれができない」という信念、思い込みが自分の中にあるから、○○という現実を創り出しているのです。つまり、自ら障害を生み出して「できない」シチュエーションにしているわけです。(無意識レベルなので気づいていないことが多い)
いつもここぞというときに失敗してしまう、なぜかいつもやろうとしていることがうまくいかない、自分が本当にやりたいことに取り掛かろうとすると、いつも妨害される、etc...
そのようなパターンを繰り返しているとしたら、それは、自分の中に、
「私はいつも失敗する」
「私には物事をやり遂げる力がない」
「私にはやりたいことをする資格がない」
といった負の信念が潜んでいるからです。その他のことは、その信念が形となって表れているだけです。
そして、その全てが本当は幻です。邪魔をしてくる人も(本当は自分が思い込んでいるだけかもしれませんが)、障害となっている現実も、欠けているように見えている能力も、全部、幻想なのです。自分が心の中で創り出している思い込みは、幻想以外の何物でもありません。だとしたら、その幻想が目に見える形で出てきている現象もまた、幻です。
自分が生み出した幻想に苦しむくらいなら、幻想を望ましいものに変えて楽になった方が良いのではないでしょうか。幸い信念、思い込みというものは自由自在に変えていくことができます。古い信念、必要のない思い込みは捨てて、新しい信念に塗り替えていけばいいだけです。
「私の人生の全てが良い方向にむかっている」
「私には物事をやり遂げる力が備わっている」
「私には人生を楽しむ資格がある」
縛りを外して、自由になる過程では、時に抵抗する力や反発も受けるかもしれません。勇気と忍耐が試されます。それまで何年、何十年も抱き続けてきた信念を外していくには、エネルギーと時間がいるものです。ある日突然生まれ変わったような自分になることを期待しないでください。がっかりすることになると思います。ステップバイステップ、一進一退を繰り返しながら、少しずつ殻が外れて、少しずつ本当の自分らしさを取り戻していく。フラワーエッセンスなどの力を借りながら、気長にやっていきましょう。
娘の中学の入学式に出席してきました。満開の桜が窓の外で揺らめく中、吹奏楽部の部員達が奏でる音楽と一緒に、赤い絨毯の上を緊張した面持ちで歩く新一年生。その横顔を見ながら、私はふと、自分が中学生だった時の入学式はどうだったかな、と思いました。
ところがどんなに思い出そうとしても、そのたった一場面さえも記憶に残っていないことに気づき、愕然としました。果たして入学式なるものがあったのかどうかさえわからないくらい記憶がないのです。おそらくちゃんと普通にあったはずなのですが。
今私が出席している娘の中学の入学式のように、先生方や在校生、保護者、来賓の方々が見守る中、はじめの言葉とか祝辞とか校歌斉唱などを聞き、吹奏楽の演奏も見ただろうし、真新しい制服に身を包んで緊張と不安を抱きながら出席していたはずなのに。それなのに微塵の記憶もないとはなんということでしょう。入学式のためにいろいろ準備もしただろうし、様々な思いを抱いていたはずのに・・
人の記憶とは、かくもはかないものなのだなと思います。中学の入学式に限らず、人生で起きるほとんどの出来事は記憶に残りません。今こうしてパソコンの前に座ってブログを書いている瞬間だって、あと数時間もすればきれいさっぱり記憶からなくなっているに違いありません。
記憶に残る、残らない、なんて、執着する意味がないのかもしれないな、と思いました。私たちはとても嫌な出来事があると、「早く記憶がなくなってしまえばいいのに」とか、「早く忘れてしまいたい」と思い、反対にとても楽しい出来事や幸せなことがあると、「この思い出がずっと残りますように」とか「忘れたくない」と考えます。
けれど私達の記憶に残るか残らないかの取捨選択は、えてして私達の意図するところと異なる形で行われるようです。意識的にコントロールしたくても、できないのです。それに、記憶というのは水物で、時間がたつにつれ色付けされたり、省かれたり、都合の良いように加工されたりしていきますし、とても流動的で不安定なものです。
そもそも、私達の今生での記憶は、あの世で一度リセットされますから、最初から消えていく運命にあります。
そんな流動的で不安定なものにしがみついていたら、「今」を集中して生きることができなくなるような気がします。意識が必要以上に過去に引っ張られたり、まだ起きてもいない未来に飛んでしまうと、「今」にいることができません。
人が不安になる時というのは、過去に起きた嫌な出来事の記憶にどっぷり浸っているか、未来の出来事をネガティブに想像してしまっている時で、「今」この瞬間にしっかり地に足をつけていられる時は、不安は起こらないものです。「今」この瞬間には、何も恐れることがないからです。そして、人生は数限りない「今」の連続で、目の前にあるなすべきことを一つ一つこなしていくプロセスそのものです。
常にどんな時でも、「今」に集中して生きていくことができれば、その瞬間の出来事が記憶に残ろうが残るまいが、悔いは残らないのではないかと思います。「今」に感謝して、瞬間瞬間を楽しみながら、愛おしみながら過ごしていれば、過去や未来に浸る必要もないし、不安や後悔とも無縁でいられます。
☆「今」にいることをサポートしてくれるエッセンス☆
『Being in the Present』(ビーイングインザプレゼント)・・・アンジェリック
”今、この瞬間にいるということは人生に立ち向かう用意があるということです。人生の全ては、今この瞬間に起きていますが、多くの時間を私たちは未来や過去に意識を向けていて、現在を完全に体験する機会を逃しています。現在のみが人生に影響を与えます。現在においてのみ、明らかにすることができるのです。私たちは今にだけ生きることができます。このエッセンスは今この瞬間に生きること、完全に私たちの人生を生きることをサポートします。”
イエス・キリストが亡くなった後、残された弟子たちは、ある話し合いをしました。12人の使徒のうちの1人であったユダは、イエス様を裏切って反対勢力に引き渡す手助けをした後、それで得たお金である地所を手に入れました。ところが、その場所でユダは、高い所から”さかさまに落ちて”死んでしまいます。
弟子たちは、そのユダの代わりに誰を使徒に加えるか、神に祈った後、なんとくじを引いて決めることにします。その結果、くじはマッテヤという人物に当たり、彼が使徒に新たに加えられることになったのでした。
こんな大事な決め事を、くじで決めるとは。現代人の私達の感覚では、安直とも思えてしまいます。けれど、神の御業に身を委ねる感覚が強かった昔の人にとって、くじの結果というのは神の御心を表すものであり、今よりも神聖な儀式だったのかもしれません。
易やタロットといった占いもまた、神の啓示を目に見える形で表す方法として、古代から伝えられてきました。全ては神の御業、亀の甲羅や動物の骨に入ったヒビも、シャッフルした後に選ばれたカードも、この世を動かしている見えざる手によるメッセージであるのです。
私が幼い頃、毎年お正月になると、南相馬市の祖父母の家の近くにあった小さな神社でおみくじを引くのが習慣でした。不思議なことに、「お年玉がたくさんもらえますように」とか、「○○を買ってもらえますように」といった、お金にまつわる願い事をすると、その後に引いたおみくじの中には必ず小さな小さな”金の神様”が入っていました。お金に関係のない願い事の時には、金の神様は入っていませんでした。これは私に限ったことではなく、毎年おみくじを一緒に引いていた兄やいとこたちにも同じように起きた現象でした。
子供の通っている学校では、PTAの役員決めの際、委員長や副委員長といった役職を決めるのはいつもくじでした。そうした方が誰からも文句が出ないからなのでしょうが、そもそも人は潜在的に、くじの結果には逆らう感覚が起こらないものなのでしょうか。なぜか、くじの結果には有無を言わさぬ説得力があります。
そして、くじで決まったメンバーというのは、なぜか常にしっくりくるのが不思議です。やはりくじには、神聖な力が働いているとしか思えません。
来週、娘の中学校の入学式が行われます。式が終わった後、保護者は全員集められ、そこで一斉にくじを引かされることになっています。3年間全てのPTAの仕事がその場で割り振られるとのことです。委員長クラスのヘビーな仕事を引くのか、それとも軽い手伝い仕事が当たるのか。神の采配に委ねます。こんな風に考えていた方が、謙虚に取り組めるような気がします。
アンジェリックエッセンスの『Transition』(トランジション)。”転換点、過渡期、変わり目”といった意味です。
〈解説〉↓
「変化。あらゆる変化の間に起こる感情や問題を助けます。このような変化には、日常生活の変化や意識の変化なども含まれますが、それだけではありません。新しいものを統合し、根付かせることを助けます。何か変化が起こると思ったら、その前と最中にこのエッセンスと摂るとサポートされます。このエッセンスは変化によって生じるおびただしい数の挑戦を私たちが受け入れることを助け、神の恩寵の元でたやすくそれらを乗り越えられるようにしてくれます。」
(㈱ネイチャーワールドHPより引用)
幼虫が蝶へと変容を遂げるには、蛹という形態を一度とる必要があります。その間、繭の中で一定期間を過ごし、成虫へと姿を変えるタイミングを静かに待ち続けます。私達が、古い殻を破って新しい自分に変容する際も、このようにある期間、過去の関係から遮断されたような環境の中で、静かに自身の内面に向き合う”トランジション”の時期が必要だったりします。
この変容の時期の前後には、それまでの人生を一度清算するような出来事が起こりがちです。古い人間関係に終止符が打たれたり、それまでやっていたことに違和感を覚えるようになったり、所属していたコミュニティーが急に居心地悪く感じるようになったり。また、人によってはアクシデントや病気、怪我、身近な人の死といったような、現世的には事件ととらえられる出来事に遭遇する場合もあります。いわば強制的に生き方の流れを変えさせられるパターンです。
現象として表に出てくる問題に対処するだけでも精神的・肉体的な負担がかかる上に、それまで自分が絶対的なものと信じてきた価値観も揺さぶられるために、いわば”軸”が壊れたような状態になり、心身ともに安定した状態を保つのはなかなかにハードです。
そんな時期こそ、周囲の状況や他人の声に必要以上に振り回されず、内観をし、己の信じる道をただ突き進む。過去には目を向けず、執着を捨て、ゼロから始める気持ちで歩んでいくのが一番の近道です。その際、エゴの声を聴かないように自分自身をまずクリアーにすること(浄化)、外野の声は適当に聞き流して内なる声のみを信じること(バリアーを張る)、自分を守り導いてくれるスピリットガイドにサポートをお願いすること(祈り)、が大きな助けとなってくれます。
それまで築き上げてきた経験や財産、人間関係、仕事、場所などと思い切って決別する必要がでてくるかもしれませんので、多少のゴタゴタや混乱は覚悟した方が良いでしょう。これらのことは他の誰でもなく自分が決断して進んでいくものなので、孤独に耐える強さと意思の力が試されます。また、行く手には数々の誘惑と挑戦が待っているので、脇道に逸れて堕ちた天使にならないように、注意が必要です。(堕ちた天使たちの見本は巷に溢れています)
人によっては、この変容の期間が人生で一番過酷で苦しい時期だった、ということもあるかもしれません。けれど終わりの来ない夜はなく、”魂の闇夜”は来たるべき新しい人生の前に必要な、産みの苦しみでもあります。
幸いにして私たちは1人ではなく、手を差し伸べてくれる存在は誰にでも必ずいます(生身の人間とも限りませんし、それは何かの形となってやってくるかもしれません)。謙虚にサポートを求めてもいいのです。フラワーエッセンスも、人生の転換期を迎えている人を助けてくれるものがたくさんあります。深いレベルで崇高な決断をした勇気ある魂が、美しくスムーズに変容を遂げるのをお手伝いしてくれます。
自分が今転換点にいるような気がする、「次」に進むのに背中を押してもらいたい、いまいち自分の方向性に自信が持てずにモヤモヤしている、等々、フラワーエッセンスの助けを借りたい方は、ぜひうぶすなにご相談ください☆彡
アンジェリックエッセンスには、『カスタムエッセンス』(Custom Essence)というものがあります。"custom"とは「オーダーメイドの、あつらえの」という意味ですが、このエッセンスを注文すると、注文した人に必要なエネルギーが、ボトルの水に転写され、送られてきます。まさに、オーダーメイドエッセンスです。
1人1人、必要なエネルギーが異なるため、カスタムエッセンスは注文者に応じてユニークなものになります。もちろん、効果の表れ方も人それぞれです。
私が以前、これを頼んだ時のこと。ボトルが届いて蓋を開けたところ、手元が滑って中身が少しこぼれてしまいました。せっかくなので、手にこぼれたエッセンスを両手でこすり合わせ、そのエネルギーを感じてみることにしました。手を合わせ、更に顔の周りに手をかざしてみた時、私はとても懐かしいような、ホッとする、けれどとても力強いエネルギーを感じました。「あ、これは私が”私”に戻れるエネルギーだ!」と瞬間的に思いました。
飲み始めて数日後。私は、それまでに感じたことのない、ズシンと具体的な重みがわかるほどの、グラウンディング力を高めるエネルギーが自分の中に流れていくのを感じました。それはまるで、両方の足の裏から、ニョキニョキと地軸に向かって太い根っこが伸びていき、地球にがっちり体が固定されるような感覚でした。ともするとフワフワと霊的な世界に気持ちが向きがちな私を、しっかりと地球に結びつけておくためのエネルギーなのだな、と思いました。
それまでも、意識的にグラウンディング力を高める努力はしてきたつもりでしたし、そういったエッセンスも度々取ってきてはいましたが、このエッセンスは力強さが全く違っていました。歩くたびに、地球に足が張り付くようなフィット感があり、地に足がつくとはまさにこのことだ、と思いました。そして、それまではどちらかというとメンタル、精神、魂の世界を重視しがちだった私に、肉体を持って地球で生きるという現実体験にきちんとフォーカスできる感覚をももたらしてくれました。肉体にこんなにもしっかりと納まっていられたことは、それまでなかったかもしれません。生きている、生きていいんだ、私は今この地球で全身全霊で生きる体験をしているんだ、”上”の世界はいつかまた行けるんだし、今は地球でこの肉体を使って、生きる時期なんだ。そんな思いと共に、力強い安心感と、守られている感覚がジワーッと湧き出してきて、私の全体を包んでいくのを感じました。(ちょうどその時期、娘の学校の謝恩会があり、そこで子供達が谷川俊太郎氏の『生きる』を朗読していたのも、偶然ではなかったかもしれません。この詩ほど、地球で生きるということを端的に表現したものはないと思います)
また、このエッセンスを飲んでいるうちに、私が最初エッセンスに直接触れた時に感じた「私が”私”に戻れる」という感覚が、どんどん強くなっていきました。私は私のままでいいんだ、他の誰でもなく、”私”でいていいんだという感覚です。それまでは、何となく他にお手本があったり、見習うべき人や生き方があって、それに自分を合わせていかなければいけないという思いがどこかにあったのですが、そういった縛りがスーッと溶けてなくなっていき、とても楽に、とても軽くなりました。
以前は、イエス様やお釈迦様やマリア様、その他たくさんのスピリチュアルリーダーたち、そういう人たちを尊敬するあまり、自分もああいう人たちのようにならなければいけない、なれないにしても努力して目指していかなければいけない、と思っていました。けれど、私のために作られたカスタムエッセンスを飲んでいる間に、その思い込みもまた幻想で、縛りもまた幻想、執着であったことに気づいたのでした。
私が”私”でいていいんだという感覚は、何にも代えられない自由と幸福をもたらしてくれます。自分を責めなくなりますし、自分という存在が大切に感じられる分、他人にも優しい目を向けることができるようになります。私達が他者を受け入れるためには、他人に寛容になる努力を一生懸命するより、自分に寛容になるのがまず先です。
カスタムエッセンスは、ルースさんが高次の存在達とチームを組んで作成してくれるものです。高次の存在達にしてみれば、私の今の状態や必要としているエネルギーなど、赤子の様子を見るようにわかりやすいことなのでしょう。
☆☆☆カスタムエッセンスはうぶすなでもご注文できます☆☆☆
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13,500円(税込み) *送料無料*
☆アンジェリックエッセンス創始者のルース・ジョイさんが天使や高次元の存在達の力を借りて作る、世界に一つしかないあなただけのカスタムエッセンス。注文をご希望される方は、うぶすな宛にメール(momonokunikara@gmail.com)もしくはお電話(080-6257-7130)でご連絡ください。その際、「名前、住所、電話番号、住所と名前のアルファベット表記」を明記してください。オーダーメイドですので、発注から到着まで、1~2週間程度かかります。
オーストラリアン・ブッシュの「ダガーハキア」。このエッセンスは、家族や恋人のようにずっと親しくしていた人たちに対するわだかまりや恨み、怒りを感じている人のためのものです。
『愛憎』という言葉がありますが、愛するあまりそれが憎しみ変わったり、相手に対する思いが強いが故に、執着も強くなることがあります。
幼い子供と親との間には、エネルギー的にも心理的にも大変強い絆があります。大きくなるにしたがって、それらの繋がりが徐々に変化していくものなのですが、成長した後も幼い頃のような支配的・依存的な関係性が残ってしまうことがあります。
私達が真に自由を感じて生きる上で、一番の障害が家族であるということも実は多いのです。
そのことに気づき、大人になった自分が未だに親の強い影響下から抜け出せていない、ここを何とかしなければいけない、と思うに至った場合。今まで自分を”縛って”きた親に対する恨みや怒りが一時的に噴出してくることがあります。
私は私らしく生きたい。いつまでも親の顔色をうかがい、親の反応を気にして生きるのは嫌だ。そのためには、一度自分の中で、心理的・エネルギー的に親と決別する必要があるのですが、その際怒りが強い原動力ともなるのです。
時には、親に対して、謝ってほしい、自分の過ちを認めてほしい、という思いが湧いてくるかもしれません。自分の思いをぶちまけてスッキリしたいと願うかもしれません。
けれど実際には、親自身の価値観と、自分が心から自由を感じていられるかどうかということは、あまり関係がありません。私が私らしく生きていられるかどうかということは、親がどうであるとか、彼らがどう考えているかということとは、別の問題なのです。もう、そこにとらわれない方が良いです。親といえど、違う人間です。違う人生、違う価値観、違う生き方を選択した人たちなのです。自分が認めてもらいたかったら、自分も相手の生き方を認めなければいけません。
怒りは時として行動を起こすための起爆剤となることもありますが、怒りや恨みをいつまでも引きずっていると、そのネガティブエネルギーに今度は自分が参ってしまいます。他人の状態や過去に起こったこと、これらは自分の力ではどうにもならないことです。どうにもならないことを何とかしようとすると疲れます。それよりも、今の自分の心に目を向けて、価値観、執着、思考のクセを見つけて矯正していった方が、怒りを早く手放すことができます。
アンジェリックエッセンスの、「Opening to / Embracing Earth Incarnation」(オープニングトゥ/エンブレイシングアースインカーネーション)というエッセンス。解説には、↓
『地球への転生の受け入れ。自分の外見的な肉体、セクシュアリティ、そして地球とのつながっりをもっと受け入れられるように。性的虐待を受けた経験のある人に』
(㈱ネイチャーワールドのサイトより引用)
とあります。
スピリチュアルに傾倒している、もしくはスピリチュアルな世界に引っ張られる傾向のある人は、気を抜くとそちらの世界にばかり気持ちがいってしまい、「地球」との繋がりが薄れがちになることがあります。
スピリチュアルな世界は確かに魅力的ではありますが、私たちは今、地球を学びの場として選んで生まれてきています。地球でしか経験できないこと、地球でしか学べないこと、地球でしか体感できないことがあり、それらを肉体で、感覚で、魂で感じ、経験することで得られる何かがあるのです。そこで得た何かを魂の成長の糧とし、あの世に持ち帰り、また戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。それは私達にはわかりません。わかっているのは、私達が今ここで、地球という星の下に、肉体を纏って生きているということです。それが私達に与えられた環境であり、そこをまず受け入れなければいけません。
『性的虐待を受けた経験のある人に』と解説にはありますが、そこまでひどい虐待を受けたことがないにしても、心に深い傷を負ったり、恐怖体験が多かったり、生きづらさを抱えてきたり、自分らしさをオープンにすることが難しい環境にいた人などは、地球との繋がりが薄れていく傾向があるようです。ある種の逃避です。現実生活において、生き生きと自分らしさを開花させる場所がなく、自分らしくあっていいのだという安心感が抱けずにいると、自分がまるで根無し草になってしまったかのように感じることがあります。人間は地球と繋がってこそ現実創造の力を得ることができるので、自分の軸がしっかり定まらない状態だと、とても不安定になり、孤独や絶望を感じることになってしまいます。自分はどうせ認められない存在なのだと自己卑下の感覚が強くなったり、何をやってもうまくいかないのだと諦めの境地に安住したりすることになります。
地球とのつながりは、いわゆるスピリチュアル用語で「グラウンディング」と呼ばれるものです。エネルギー的に、しっかりと地球と繋がっている状態を「グラウンディング」と言います。このグラウンディングがちゃんとできていないと、スピリチュアルな世界に惹かれるあまり現実生活との折り合いがつけづらくなったり、フワフワと空想の世界で遊んでしまうような、いわゆる地に足のついていない感覚になったりします。
グラウンディングができている状態だと、肉体の中にしっかりと納まることができているので、霊的な世界にばかり気持ちが動くことがありません。そして、今身を置いている自分の現実を正面から受け止めることができ、どこか別の世界に自分の居場所があるような錯覚を抱くこともありません。どんなことがあっても大丈夫だという安心感で満たされていますので、たとえ問題が起こったとしても、必要以上に動揺することなく現実的に対処することができます。自分の役目を理解し、今自分がやるべきことに落ち着いて向き合うことができます。
生まれながらにしてスピリチュアルな世界との強い結びつきを感じながら生きてきた人は、肉体を重く感じたり、地球で生きるという宿命を受け入れることに抵抗を感じることが多いようです。そんな人は、辛いことがあるとスピリチュアルな世界に逃げ込んでしまいたくなるかもしれません。けれど、今自分が生きている環境を否定したり受け入れられずにいると、グラウンディング力はどんどん弱くなり、現実に向き合いそして新しいものを創造していくパワーが得られなくなります。現実に目を背けている間は、現実を変えることができないのです。結果的に更に地球に生きることがつらくなっていきます。
天と地と自分。この三つがバランスよく繋がった状態でこそ、最もエネルギーが充満し、地球での生を全身全霊で謳歌することができます。まずは、自分が地球での転生を選んで今ここにいるのだということを、受け入れることから始めましょう。そして、必要のないおもりを外し、身軽さと自由を手に入れて、地球でのアドベンチャーを大いに楽しみましょう。
「元型」「アーキタイプ」とは、人々の集団意識に存在する、象徴的なイメージを表します。この言葉は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱したことで有名ですが、元型の概念自体は、古代から私達に受け継がれてきたものです。
例えば、『母親』の元型というと、ふくよかで温かく、料理が上手で世話好き、おおらかで包み込むような優しさを供えた女性、『王様』の元型はというと、どっしりとした体型で威厳があり、カリスマ性と明瞭な判断力を兼ね備えた、不動の自信に満ち溢れた頼りになる男性、といったイメージでしょうか。『孤児』『道化師』『魔術師』『破壊者』等々、元型の種類はたくさんあります。
私達1人1人の中にも、その人となりを形作る要素として、いくつかの元型が存在しているといいます。それは、私達が生まれもった気質、キャラクター、といったものですが、中には埋もれたままだったり無理やり封じ込められたりして、人生で上手く表出し切れていないものもあります。例えば、本当は『自由人』という元型を持っているのに、育った環境がその要素を表に出すことを許さず、無理やり自分を別のタイプに当てはめて生きてきた場合など。その人本来の、自由を求める気質が押さえつけられているので、常に窮屈さと生きづらさを感じ、何となく自分が自分じゃないような、ちぐはぐな感覚を抱くことになります。
または、ある一定の年齢に達してから、殻が破れたように、眠っていた元型が表に出てくることもあります。逆に、幼い頃表に強く出ていた元型が成人後には鳴りを潜め、別の元型が大きな影響力を持つようになることもあります。
その人が元々持っている気質、要素は生まれながらのものなので、自分が何か別のものになろうとしても、疲れるだけですし、徒労に終わることがほとんどです。「キャラじゃない」ことをしても、しっくりこないし、物事もうまく進まないのです。
私の娘は友達を作るのが私よりはるかに上手で、友達との付き合いをとても大事にします。学校だけでなく、習い事先でも必ず仲の良い友達がいて、それぞれの友達と実にマメにコミュニケーションをとっており、その律儀さには頭が下がります。たくさんの友達とワイワイやっているのが一番楽しいようで、放課後や休日時間がある時には、必ず予定を入れてどこかに遊びに出かけます。1人静かな場所で過ごすことが大好きだった私の子供時代とは全く違っているのですが、それは私と彼女とでは持っている要素(元型)が違うからです。
娘はいうなれば『コミュニケーター』『旅人』『仲介者』といった元型の保持者であるのに対して、私は『隠遁者』『修道女』『求道者』辺りがしっくりくるタイプ。1人の時間がとても大切で、大勢の人がいる場所に長くいると疲れてしまいます(だから学校が苦手だったのかもしれません)。
そんな私が、一念発起して娘のように大勢の友人を作ろうと頑張っても、きっと空回りしてうまくいかず、最後には心身ともに疲弊して強制終了することになるでしょう。たくさんの人との付き合いを同時にこなすことが不得手で、映画や舞台鑑賞なども、1人で行った方が楽しめます。一方で、娘にとって友人がいないという状況は「寂しい」以外の何物でもないそうで、その場所が楽しいものになるためには、友人の存在が必要不可欠なのだそうです。彼女にとっては、孤独は癒しというより苦痛に近いかもしれません。
そういえば、会社勤めをしていた頃、最初は事務の仕事をしていたのですが(物足りなさはあったがしっくり感はあった)、その後営業的な仕事をする部署に異動になり、急に自分じゃない人間になることを求められたような状況が苦痛で仕方なかったのを思い出します。それでも、命じられるがままに精一杯仕事を務めようと、頑張ってノルマをこなしていたのですが、無理やり「キャラじゃない」自分を演じ続け、やりがいも感じられない環境に身を置いていることに対して体が先に悲鳴を上げました。思い返せばあの頃は、軽いアル中気味だったし(お酒の力を借りなければ眠りにつけなかった)、ホルモンバランスも乱れていたし、しょっちゅう寝込んでいたし、心の悲鳴を無視し続けた結果、様々な形で問題が表出していたのだなあと思います。
自分が持っていないものを他人に見出して羨ましいと思ったり、いいなと憧れるのは、人間の自然な性かもしれません。そして、周りが求めてくる期待に応えようと、本来の自分を押し殺して違う人間になろうとするのも、誰しもが一度は経験することなのかもしれません。
けれど結局は、自分が持っていないものは持っていないわけですし、どう頑張っても手に入らないものもあります。潔く諦めることと、受け入れることが大切なのだろうと思います。それと同時に、今度は自分が「持っているもの」に目を向けて、それを大事にしていかなければいけません。自分の気質、キャラクター、才能、得意分野、これらは皆神様から与えられた特別なギフトです。どんな人でも、ギフトは必ずあります。それも、一つだけではなく、いくつもあります。
持っていないものは諦め(持っている人に任せましょう)、持っているものを大事にする。私自身も、数々の失敗を繰り返して、ようやくそこに目を向けられるようになってきました。
フラワーエッセンスは、その人の人生をより生きやすくするために、大きな力となってくれるものです。
自分が生まれた環境を否定し、与えられた試練(ギフトでもある)を拒絶し、人からされた仕打ちを憎み、現状に不満を持ち、他人を恨み、嫉妬し、文句を言い・・・
そんなこと、本当はもう終わりにしたい。そんな自分でいたくない。誰もがそう思っていると思います。
不毛なことだとわかっていても、なぜかネガティブサイクルから抜け出すことができない。そんな時は、とにかく後ろを見ずに、前を見て、新しい自分になることです。古い自分を捨てることです。過去に何をやってきたかとか、どんな家に生まれたとか、どんな親に育てられたとか、どんなトラウマがあるとか、人それぞれいろんなことがあると思います。けれど、そういったことにいつまでも引っ張られていては、新しい自分になれませんし、新しい人生をスタートすることができません。
過去は過去、もう終わったことです。そこにいつまでもとらわれていては、自由になれません。
フラワーエッセンスは、本当の意味で自由になりたいと望んでいる人にとって、頼もしい存在となってくれます。その過程を後押ししてくれるからです。
本当の意味での自由とは、自分が何物にもとらわれていないという感覚でいることです。過去の自分からも、自由でいるということです。
それには、覚悟が必要だと思います。しがらみや習慣、パターンを一度打ち壊すことになるので、自分をしっかり保っていなければいけません。周囲との関わり方も変わっていくことになるので、勇気と気力も必要です。時として、障害や試練、決別もやってきます。意思を強く持ち続けなければ、乗り越えていけません。
フラワーエッセンスは、大きな決心をした人ほど、より強いサポートを受けるように感じています。結局、その人の中での意思が弱いと、その程度にしか効かないのです。それは、アンジェリックを使った場合、顕著に表れると思います。アンジェリックエッセンスは、その人の準備ができた段階までしか作用しません。
逆に、「私は変わるんだ」と心の底から強く決心した人には、ダイレクトな変化が起こったり、チャンスやサポートがたくさん与えられたり、ということが多いです。
そして、変わろうと決心したら、とにかくどんなに小さなことでもいいから、行動に移すことです。動くことです。何もしないで変化が起こると思わない方が良いです。チャンスがやってきたら、思い切ってトライしてみてください。これをやったらどうなるかとか、失敗したらどうしようとか、周りがなんて言うかなとか、そんなことは微塵も考えない方がいいです。頭で考えたことは、全くあてになりませんし、何の役にも立ってくれません。(今まで役に立ったことがあるでしょうか?)
今までこういうことをして失敗してきたから躊躇してしまう、という話もよく聞きますが、それは過去の自分はそうだっただけです。新しい自分はかつての自分と同じではありません。同じことが起こるとなぜいえるのでしょうか。過去の自分が嫌だったら、違う自分になればいいだけです。
フラワーエッセンスには、新しく人生を切り開こうとする人が抱きがちな、恐れや不安を緩和してくれるものがたくさんあります。古いパターンを脱ぎ捨てる過程で起こりがちな問題を、上手に切り抜けるサポートをしてくれるものもいろいろあります。やってくる障害に打ち勝つ勇気を育んでくれるもの、周囲との軋轢を緩和してくれるもの、内なる力を開花させるお手伝いをしてくれるもの、信じる力を高めてくれるもの、混乱を鎮めてくれるもの、インスピレーションを受け取る力を高めてくれるもの、etc...
具体的に動いていくのは自分自身なのですが、フラワーエッセンスは、その工程をよりスムーズに、エレガントに、迷いなく進んでいくお手伝いをしてくれます。
自分の身に起こったことや、人からされたことをいつまでも恨み続け、心の傷と共に怒りを保持したまま生きていくなんて、苦でしかありません。本当は赦したい、赦せたらどんなに楽になるか、そこに気づいた人はもうその段階から癒しが始まっています。
まずは、自分が「被害者」であるという認識を取り去ることです。時として、人は自分を正当化したいがために、自分を被害者に仕立てることがあります。悪いのは「加害者」だと決めつけてしまえば、ただ相手を責めるだけで済みます。相手がこうしたから、私はこうなったのだと思った方が楽なのです。
けれどそのように、起こった出来事を誰か他の人に責任転嫁しているうちは、古いパターンの中に居続け、不満と怒りと劣等感から逃れることができないまま人生が終わるでしょう。人生の舵取りをしているのは自分なのだという認識、人生の創造には自分の意思が大きく関わっているという認識、決定権を握っているのは実は私なのだという認識がありません。自分の人生で起こる出来事全てを引き受ける覚悟もありません。なにより、起こったことをあるがまま受け入れる謙虚さがありません。
だから、思い通りにならないことが起こったら、何が悪いからこうなった、誰のせいでこうなったと、何かのせいや人のせいにします。もしくは、今は何がないからできないとか、こんな状況だからできないのだと、できない理由をあれこれ見つけて言い訳し続けます。
悲劇の主人公を演じている方が、一見現実を受け入れやすく思えるかもしれません。けれど、自分を「被害者」だと思っている間は、自分の身に起こったこと全てを、本当の意味で受け入れることはできないままでしょう。
そうした被害者意識の裏側には、自分にとって都合の良いことは受け入れて、都合が悪いことは受け入れたくないという、思いあがった人生観があるように感じます。そもそも、人生のあらゆることを「私」がコントロールできるなんてことは絶対にないのです。人生のある領域においては、個人の力が及ばないことがあります。この世界を1人の人間が動かせるはずがないように。私達が生きているこの世界は、人智を超えた大きな力で動かされているのだから、思い通りにならない領域は必ずあります。自分の身に起こることや、世の中で起こっていることをいちいち「良い」「悪い」でジャッジして、不満の行き所を見つけることに労力を注ぐよりも、あらゆる出来事を取りあえず一度受け入れてしまった方が、もっと楽に、柔軟に、しなやかに生きられます。
なるようにならないこともある。けれど、なるようになることもある。私たちは、与えられた領域で、与えられたギフトをフルに使い、奉仕の精神を持ちながら人生を花開かせることだけに集中していればいいのかなと思います。
娘が2歳になるまで、横浜の社宅に住んでいました。とても古くて狭い社宅でした。社宅での記憶は、まだ小さかった娘との思い出ばかりです。
今思えば贅沢なロケーションだったとつくづく思うのですが、みなとみらいへは自転車で行ける距離でした。私はママチャリに娘を乗せて、毎日のようにみなとみらいに遊びに行っていました。福島の盆地で山に囲まれ生まれ育った私にとって、海風が薫るあの場所の雰囲気はなんだか開放的で清々しく、いつもリフレッシュできたのです。
ある時、娘とみなとみらいのカフェで一息ついていた時のこと。私よりも一回りくらい年上のお母さんグループが、近くで楽しそうにワイワイとお茶を飲んでいました。テーブルの周りをヨチヨチ動き回る娘を見て、その中の1人のお母さんが、「あんな時期もあったのねえ・・」とつぶやきました。すると、他のお母さんたちも一斉に、「ほんとね!」「まったく!」とため息交じりにつぶやきます。
「今じゃああいえばこう言う、だものね」
「(全員で)ねーー!」
推測するに、小学校高学年~中学生くらいのお子さん達のお母さんグループのようでした。その会話を聞いた時、私は、「そんなものなのかな」と思いました。当時の私には、子供が学校に行っている間に仲のいいお友達と楽しくお茶を飲めることが、とても優雅で羨ましいことに思えました。自分の時間が少しでもほしかったあの時の私にとって、子供の反抗的な態度など、自由が手に入るならいくらでも我慢するのに、くらいに考えていました。
娘が思春期を迎えた今、あの時のお母さん達のため息交じりのつぶやきに、心から共感している自分がいます。
思春期とは、体の変化と共に、世の中を眺める視点が徐々に変わっていく時期なのだな、と感じています。それまでは、親や先生といった、周りの大人達が言うことを絶対的なものとしてとらえていたのが、少しずつ、そういう人たちが言っていることの矛盾点に気づくようになる時期です。今まで絶対的権威だと思っていた大人達の、嘘やごまかし、実は適当な部分などを見抜くようになり、自分達だって不完全なのに、子供に対して偉そうにしている態度が許せないと感じるようになります。
そして、そういった矛盾に気づきながらも、自分が大人達に完全に逆らうことができない弱い立場であることも、また歯がゆいのです。100%逆らうことに対しては躊躇があり、たくさんの憤懣や怒りを飲み込んでいます。それに、自分の気持ちを整理して言葉で表す能力もまだまだ未熟です。そもそも、自分でも自分の心の状態がよくわかっていないことが多いです。人生で最も複雑な時期なのですから、混乱するのも当たり前かもしれません。荒れ狂う心のさざ波に、自分でもどう対処したら良いのかわからないのです。
過渡期ほど、物事が劇的に変わります。そこに関わる周囲の大人達は、思春期の子供の大きなエネルギーの動きに飲まれることなく、どーんと落ち着いていることが求められます。
特に母親には、一番自分を受け止めてくれる存在でいてほしいと望むようです。私も最近ようやく気付いたのですが(もっと早く気づけば良かったのですが)、子供が母親に対して怒りをぶつけてきた時に、その怒りをそのまま受けてしまったら、自分の怒りスイッチを点火するだけだということです。思春期の子供は、行き場のない怒りのはけ口を必要としています。それが内側に行く子もいれば、外に向かっていく子もいます。その両方もいます。
自分が一番甘えられる存在、自分を無条件で受け入れてくれる存在が母親である場合、その母親を怒りの緩衝材役として無意識に選び、怒りをぶつけます。そんな時に、やってきた怒りを自分に引火させないためには、怒りを受け取るのではなく、流すことが必要になります。スーッと透明な存在になって、怒りをただ通り抜けさせるのです。
どんなにイライラした子供でも、数分間も怒りをぶつけていれば、そのうち落ち着いてきます。ある瞬間から急にトーンダウンし、次第に口調が穏やかになり、目から怒りの炎が和らぐのが見て取れます。怒りを吐き切ったら、後は怒りようがありません。怒りの持続性は長くありません。
慣れないうちは、子供がぶつけてくる怒りにいちいち反応してしまっていた私ですが、それではお互いの怒りが増幅し合うだけで全く意味がないことがわかり(何よりこちらが疲弊します)、最近は自分が透明な存在になることに徹しています。フラワーエッセンスにも助けられています。
10年前、みなとみらいのカフェで出会ったお母さんグループのお子さんたちは、今頃はご立派に成人されていることでしょう。今、あの時期のことを振り返ったら、何と言うのか聞いてみたいです。
アンジェリックエッセンスの『Unconditional Forgiveness』(無条件の赦し)。次のようなエネルギーが入っています。
「すべてのレベルにおいて完全なる許しをもたらすことを助けてくれます。許すことができないという重荷から私たちを解放してくれます。許すことによって私たちは自由になるのです。この自由とともにさらなる更なるエネルギーがもたらされます。」
(ネイチャーワールド㈱様HPより転載)
”Unconditional”(無条件の)という単語が入っている所がポイントです。赦しとは本来、条件付きでは起こりえないものなのです。
あの人が~してくれたら、~と言ってくれたら、~をくれたら、私の望むように変わってくれたら、赦す。これらは無条件の赦しではありません。
過去を手放せずにいたり、過去に受けた傷を引きずってそこに縛られ続けている場合、それらに対して「赦せない」という思いがあることが多いです。そして、そこに関わった人や、自分を傷つけた人々をも、やはり赦せていないのです。
自分を傷つけた人から直接謝罪の言葉がほしいと思っていたり、その人が反省をして、変わってほしいと望んでいたりします。もしくは、自分と同じような苦しみを味わって、私のつらさを身をもって知ってほしい、と考えていることすらあります。
けれど、条件付きで結果を期待している限り、本当の意味で心の平安がやってくることはありません。起こった出来事そっくりそのままを受け入れて、自分の中で消化できさえすれば、相手が変わろうが変わるまいが、謝ろうが謝るまいが、反省しようがするまいが、他人は関係なくなります。全て自分の中の問題です。
自分を傷つけた相手、ひどい仕打ちをした人に対して、どうしても恨みや復讐をしたい気持ちが湧いてくることがあります。謝ってもらわなければ気が済まないと思うこともあります。それは人間としてごく自然な感情かもしれません。
自分がした行為は必ず自分の元に跳ね返ってくるという宇宙の法則がある限り、誰かを傷つける行いをした人は、必ずその行いの報いを受ける日がやってきます。けれど、その報いを与えるのが、”私”である必要はありません。そして、その人が謙虚さを学ぶタイミングも、”今”ではないのかもしれません。
それを決めるのは、”私”ではないのです。わざわざ私が手を汚すことはありません。
私が傷つき、学び、成長して強くなれたら、もうレッスンは終わっています。相手がどんな状態かなんて関係ありません。微塵も反省していなかったとしても、私が知ったことではありません。そこにとどまっていたら、次へ進むことができません。相手をどうにかしようなんて、余計なエネルギーを使っている時間がもったいないです。恨みも怒りも、自分の波動を下げるだけで何の得にもなりません。
この世で起こっていること、自分の身に起こること、他人の行動、これらを全てコントロールしようとする欲求をまず手放してしまった方が、あれこれと他人に不満の矛先が向かうこともなくなります。赦しとは、手放すこと、そして委ねることでもあります。
フラワーエッセンスの勉強をし始めた頃、私は講習会やワークショップのような集まりにちょくちょく通っていました(今でも必要に応じて講座を受けたりしています)。
引き寄せやスピリチュアル系の”マスター”を名乗る人々とも出会いました。または、世界的に有名な”マスター”の門下生であることを誇らしげに語る人もいました。
一体誰が、どのような基準で”マスター”を決めるのだろう。どの段階に達したら、どんなスキルを身に着けたら、はたまた弟子が何人できたら、”マスター”になれるのだろう。この人達は、一体何をもって、自らの立場を人よりも上に位置付けているのだろうか。見ていて私は疑問に思うようになりました。
実のところ、そんな明確な基準はまったくどこにもないのでした。ただ、その人が自分が”マスター”だと言いさえすればいいのです。資格もスキルも根拠も関係ありません。とても曖昧な、個人的認識に基づいた称号でしかないのです。
更にいえば、自分が師であるとか達人であるとかマスターであるということを自ら積極的にアピールしている人ほど、自己顕示欲と虚栄心に基づいて自我のキャラクターを作り上げていることに気づきました。そして、”弟子”の数と知名度に固執し、金銭的な豊かさや、いかに本が売れているか、どんな有名人を教えているかといった表面的な状況を「成功」と称し、そこを強調します。その講師の表面的な華やかさと、自信を得た人特有のカリスマエネルギーによって、更なる人々が虚栄心を刺激されて吸い寄せられていき、ノウハウを教えてほしい、私も「成功」して華やかな人生を送りたいと、派閥がどんどん膨らんでいきます。実際には、それらのノウハウも、人々の自立心を奪い、講師を頂点としたヒエラルキーを盤石化するために巧妙に編み出されたツールだったりもします。中には、完全に共依存の関係に陥って、心理的にも金銭的にも持ちつ持たれつの呪縛にはまり込んでいる人々もいました(過去形で書いていますが、こうしたシチュエーションはそこかしこで今現在も起こっていると思います。あまりにも分かりやす過ぎるほどシステム化されていたり、価格設定が法外だったり、ホームページやSNSなどの宣伝媒体でのアピールに全く隙が無く、やたら数字的な評価を強調してくる団体⦅個人の講師でも⦆、などは要注意です)。
ある時から、私はこんなくだらないパワーゲームから距離を置こうと決めました。自分が目指しているのは、虚栄心に心を奪われた人たちが目指す「成功」ではないのだということに気づいたからです。そもそも、表面的な意味での成功とか失敗なんて、人生の本質には何ら関係がないと思います。物理的な世界で見えている部分に必要以上に惑わされ、心を奪われてしまったら、視界が曇り、魂が本来目指すべき道が見えにくくなってしまいます。
余計な道草を食って時間を無駄にしたくないですし、エゴがエゴに訴えるだまし合いには全く魅力を感じません。教える側も、教えられる側も、エゴが刺激されてエゴが肥大化していくだけです。
スピリチュアルに目覚めた人は、行く手のあちこちに巧妙な罠が潜んでいることを、心して進んでいった方がいいと思います。
昔あんなに気が合って毎日何時間でも一緒にいられたのに、久しぶりに会ってみたら、昔とはなんだか感覚が違っていた。話もなんとなくかみ合わないし、お互いの価値観のズレを感じる。何より、かつてのような響き合うワクワク感が全くない。
こんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。私たち人間は常に変化し続けている存在です。波動も変化しています。けれど人によってそのスピードはまちまちだったり、変化の種類や大小も異なります。だから、かつては波長がとても合ってビリビリ共鳴し合っていた関係でも、時間がたってお互いの波動が大きく変化した後に会ってみると、かつてと同じような共鳴が感じられないことは当然ありえます。
誰かと大変親しい関係性でいる時や、「離れたくても離れられない」関係性(共依存)の時というのは、お互いの波長が強力に引き合っているものです。時として、それぞれの人間の”傷”を映し合い、”傷”によって引き寄せられている関係性であることもあります。
似たような”傷”を持つ同士が、説明のつかないような魅力を相手に感じ、お互いその”傷”を投影し合う。友人、恋人、夫婦、家族、時には芸能人やスターのような存在にもその”傷”を見出すことがあります。”傷”によって引き寄せられている時というのは、不思議な安堵感と守られている感覚があり、孤独感が緩和されるので居心地が良く感じるものです。
けれど本当の意味で人が孤独でなくなる時というのは、「誰かがいてくれるから大丈夫」という他者ありきの状態ではなくて、「私は誰かに依存しなくても生きていける」という絶対的な安心感を持てている時です。
依存的な関係性はみせかけの安心感は与えてくれるかもしれませんが、どこか不安定で、それ故に恐れも伴っています。その人がいなくなったら、その人に裏切られたら、1人になったら私は弱い存在になってしまう、そんな不安感が常について回ります。
ある段階で、1人が自分の弱さを乗り越えて、長年持ち続けてきた傷を手放す決心をしたとします。私は弱い人間ではないのだと気づき、意思の力でもって、新しい生き方をしようと心に決めたとします。私には、傷を映し合い、傷をなめ合い、傷を温め合う関係はもう必要ないのだということに気づき、そんな関係を終わりにしたいと感じます。そして、恐れの代わりにやってきた強さと勇気を武器に、新しい生き方に従事し始めます。少しずつ変わっていくその人のエネルギーフィールドが、もう今までのような依存的な関係性を必要としなくなっていきます。それまで惹かれ合っていた人と波長が合わなくなっていきます。一緒にいて違和感を感じるようになり、距離を置きたいと思うようになります。
自分が変わっていくタイミングで相手も変わることは稀です。相手にしてみれば、「なぜこの人は急に素っ気なくなってしまったんだろう」と、戸惑いを覚えるだけかもしれません。何が起こったのかがわからないからです。「私、何も悪いことしていないのに!」と憤りさえ覚えるかもしれません。相手に、自分と別れる心の準備ができていないのであれば、関係を引き留めようと様々な手段を用いてくることもあるでしょう。物や奉仕をチラつかせてきたり、高圧的な態度もしくは感情に訴えて、罪悪感に付け込んでくるかもしれません。自分が弱い存在だと思っている人にとっては、傷を埋め合う関係を失うことは恐怖でしかないのです。
けれど、一度波長が合わなくなった相手と、以前のように共鳴し合うことはもう無理です。別れるタイミングだったのだと、受け入れるしかありません。かつての関係性から、私も相手も何かを学んだはずです。どんなに過去に親しかったからといって、この先も同じような関係性を続けなければいけない義務なんて本来ありません。終わりにしたければ、いつだって終わりにできます。感謝して手放せばいいだけです。名残惜しい気持ちに引っ張られたり、相手に気を遣って偽りの自分を演じ続けていても、苦痛を感じるだけで得るものはありません。相手だって本当は違和感を感じています。無理して会っていても、焦りと苛立ちだけが募っていきます。そんな関係性、誰が得するでしょうか。
そもそも、常に変わらない、永遠に続く関係を求めるなんて、『万物は常に変化し続ける』というこの宇宙全体を支配している法則に抗うことでもあり、幻想です。変化を受け入れ、変化に柔軟に対応できる自分になった方が、よほど宇宙に調和して生きていけるので楽です。
もうすぐ中学生になる娘。今でも時間が合えば私と一緒にお風呂に入るのですが、そんな時には気持ちがほぐれるのか、普段話さないような学校の話をいろいろしてくれます。
6年生の後半となってくると、受験や卒業準備などで何かと気ぜわしくなってくるので、先生も若干カリカリしているのかな?と感じる発言が増えたり、クラスの雰囲気がギクシャクするようなことも度々あるようです。
お友達に辛辣な言葉を投げかけたり、かけられたり、仲間割れをしたり、もめごとがあったり、先生が感情的になったり・・子供なりに「どうしてこんなことをするんだろう」と信じられない思いでモヤモヤすることもあるようです。
だいたいは、お風呂の中でポツポツとそういう話をしてくれるのですが、話しているうちにだんだんヒートアップしてくるらしく、「もう、ホントなんでああなんだろう!」とか「みんなやめてほしいって思ってるんだけど、本人は気づいてないんだよね!」といった感じで次第に怒り文句に変わっていきます。
そんな時にはとりあえず、最初に吐き出すだけ吐き出させておきます。相槌も、「ふんふん」「えー、そうなんだ」「そっか~」程度で、特に何も意見めいたことは言いません。娘もしばらく話していると、次第に落ち着いてきて、トーンが穏やかになっていきます。感情が吐き出されて、スッキリするのです。
だいぶ感情が落ち着いて表情が柔らかくなってきたくらいのタイミングで、私はいつも、
「○○ちゃんは、どうしてそういうことをするんだろうね?」
といった質問を投げかけます。誰かに怒りを感じている時、許せないと思っている時は、その人本人の心の内側にまで目がいっていないことが多いです。なぜその人がそのような行為をするのか、何がそうさせているのかがわからない上に、自分の感覚や常識で当てはめてみているから、怒りや信じられないという思いが湧き出てくるのです。
自分の感覚ではとても考えられないようなタイプの人がいたとしたら、一度落ち着いて(怒りなどの感情は抑え込まず、素直に吐き出してしまった方が冷静になれます)、その人の立場になって考えてみます。その人の事情や置かれている状況を察します。その上で、その人の心の内側を感じてみます。その人の心には、どのような思いがあるんだろう。どんな苦しみがあるんだろう。そして今私たちの目に触れている姿や行動は、その人の中の一体何が表に出てきたものなのだろうか。
娘にも、そういった見方に切り替えて考えてもらうために、少し手助けをします。「○○ちゃんは、どんな気持ちでいるんだろうね」とか、「○○ちゃんは、本当はどうなりたいんだろう」といった質問を投げかけます。そして、学校の中でしか見えていないその子の姿だけでなく、お家の事情や、お父さんお母さんとの関係、塾や習い事のことなど、少しでも知っていることがあれば、そういった情報も取り入れながら、できるだけその子の”全体像”をとらえるように促します。
すると、しばらく考えた後、いろんなことに気づいていきます。そういえば、○○ちゃんはお父さんがいないって言ってた。寂しいのかもしれない。△△君は夜中まで毎日パソコンゲームをやってるって言ってた。睡眠不足でイライラしてるのかもしれない。□□先生、私たちがあんまり言うことをきかないから、焦ってるのかもしれない。etc...
私が特に大人目線の意見を言わなくても、本人の口からいろいろな気づきが出てきます。視点を変えただけで、驚くほどその人の心の内を慮ることができるのだなと思います。その推察がどれだけ合っているかはわかりませんが、少なくとも、一度「相手の気持ちになって考えてみる」ということをしてみると、その人はもう以前のような理解不能な人物ではなくなっています。自分と同じように、悩み、苦しみ、様々な葛藤と戦っている人間、になるのです。嫌悪が理解へと変わり、そして拒絶から受け入れへと変わっていくのは、そんな時です。
アンジェリックエッセンスに、『Trust』(信頼)というエッセンスがあります。その名の通り、信じる心を高めてくれるエネルギーです。
人生の転換期を迎えている方にとって、これから先どのように事が進んでいくのか、果たして良い方向に向かっていけるのか、それとも失望に終わってしまうのか、先行きが見えないと不安になることも多いかと思います。
転換期とまではいかなくとも、アクシデントに見舞われたり、困難な状況に陥っている時にも、不安や恐れに支配されて、冷静な心を保つのが難しくなりがちです。
そんな時こそ、本当は気持ちを落ち着かせ、この先に対する不安ではなく、希望と明るい未来を思い描くポジティブな心を抱き続ける必要があるのですが、大変なシチュエーションにいる時にポジティブでいるなんて、そう簡単にできることではありません。
思いもしなかった出来事に見舞われたり、人生が大きく揺れ動いているような時期に、いかに自分と、自分の人生を動かしている大いなる力(神)を信じられるかという部分で、人は試されるものなのかなあと思います。
イエス様は何度も何度も、人々に「信仰を持ち続けること」の大切さを説きました。私が思うに、この「信仰」というものこそが、自分と大いなる力に対する信頼のことなのではないかと感じます。自分と神との太いパイプを築く内なる力のことです。イエス様は、おそらくそれがほぼ完ぺきにできていた人なのではないかと思います。だから、誰よりも神様と繋がることができ、人を瞬時に癒したり、数々の奇跡を起こすことができたのではないでしょうか。
イエス様はこうも言っています。
「私がやっていることは、あなたたちにもできる」
私たちの外側で起こっていることは、あまり大きな問題ではないのかもしれません。環境や状況にばかりフォーカスしてしまうと、それが指標となってしまい、本質が見えにくくなります。本来は、外側ではなく内側の状態こそが大事で、内面の状態をいかに平和で満たすか、いかに信頼に身を委ねていられるかということが、究極の課題であるような気がしています。
「後悔役に立たず」という諺が示す通り、自分の行いや過去の出来事を悔やんだところで、誰も得をしないどころか、過去にばかり目が向いている状態は、せっかく未来に控えている輝かしい道筋を阻み、私たちを”今”にいることから遠ざけます。
そんなことを十分わかってはいるはずなのだけれど、なぜ人はこうも頻繁に過去を振り返り、あれやこれやと人を責めたり、自分を責めたりという非生産的なことに莫大な時間を費やしてしまうのでしょうか。
「後悔」の念を抱くということは、起こったことに対してそもそも「起こるべきでなかった」という認識でいます。あんなことが起こらなければよかった、あれさえなければ今私はこうだったのに、あの人はあのような言動をとるべきではなかった、あのようにすべきだった、私はあの時あのようなことを言うべきでなかった、やるべきでなかった、このようにすればよかった、etc...
けれどあらゆる出来事は、一つの例外もなく、皆起こるべくして起こっています。それは、自分1人だけの問題ではなく、その出来事に関わった全ての人にとっても同じです。
頭の中で「起こるべきでなかった」と位置付けているあの出来事。本当にそれは、起こるべきではなかったのでしょうか。その出来事があったおかげで、何か大きな気づきを得たことはありませんか。そのために、以前の私よりも強くなれた部分はありませんか。同じことを繰り返さないようになったのではないですか。他人と感情や経験を分かち合える(共感)ようになりませんでしたか。人の痛みを知るきっかけとなったのではないですか。謙虚さを学んだのではないですか。そして、相手がいる問題だったとしたら、その出来事は自分だけでなく相手にとっても、大きな教訓となっているのではないでしょうか。
アンジェリックエッセンスに、『Releasing Regret』(後悔を手放す)というエッセンスがあります。このエッセンスを飲んでいると、特に最初の頃、一時的に後悔が強く出てくることがあります。あれ、後悔を消してくれるエッセンスのはずなのに、どうして強くなってるの、と疑問に思うかもしれません。
それは、”過去を拒絶し、否定している”状態に気づかせるために、自分の中にある後悔の念をより明確に教えてくれているのだと思います。手放すためには、それが”ある”ということを一度はっきり認識しなければいけません。そして、自分がどのようにその問題に向き合えば後悔の念がなくなるのか、気づきが得られた時に、もうそれは否定的な出来事でなくなり、自分を成長させてくれる学びだったと思えるようになります。
「起こるべきでなかった」から「起こるべくして起こったのだ」と心底から受け入れることができたら、もう誰も責めようと思わなくなります。感謝の念さえ湧いてきます。成長できた自分を認めてあげられるようになります。
前回からの続きになりますが、モヤモヤ考えるよりとにかく行動を起こした方が良いというのは、いくつか理由があります。
まず1つは、アクションを起こすということは、現状を打破していくために必要不可欠な行為だからです。言うまでもないほど当たり前のことなのですが、「引き寄せ」のメソッドがあちこちで語られるようになってきたここ最近は、物事を創造していくために必要なこととして、”意識”にばかり重点が置かれることが多いように感じています。もちろん現実創造には思考や感情・意識レベルのアプローチが必要ですが、肝心の「アクションを起こす」ことが抜けていたら、望む現実を具体的に産み出していくことはできないわけで、ただの妄想に終わってしまいます。
もう1つは、実際に行動を起こし、その結果を目に見える形で受け取っていくことで、自信が生まれ、それが更に次のステップへと繋がっていくからです。最初は小さな一歩から始まるので(あらゆることがそうなのですが)、こんな小さな行動が一体どれだけの変化を起こすことができるのか疑いたくもなるかもしれませんが、とりあえずあまり先のことは考えずに一歩、また一歩と継続していくことで、何かしら現象として結果がやってくるようになります。それを目の当たりにすることで、「あ、自分がやったことがポジティブな結果を産み出している」という実感が得られます。この実感するということが大事で、自分の起こした行動が具体的に形となっていく(しかも望ましい形)感覚を経験すると、そこで初めて素直に自分を肯定しても良い気持ちになれます。それまでは、疑いと不安の方が大きかったかもしれません。けれど、自分が動いたことで現実が望ましい方向に動いたことが紛れもない事実となると、「これで良かったんだ」という安心感と、勇気を出して頑張った自分に対して肯定的な気持ちが湧いてきます。
このように、自己肯定感というものは、自分が現実を変えていく力があるのだということが実感できた時に、グンと高まるものです。できなかったことにばかりフォーカスして、自分と自分のそれまでの人生を否定し、自分を責めてきた古い思考パターンを変えていくためには、小さくてもいいからとにかく望ましい現実を自分の力で創り出し、「できたこと」にフォーカスしていく思考回路に慣れていくしかありません。
ところが、たとえ小さな行動でもなかなか最初の一歩を踏み出すことができず、あれこれと言い訳を作って先延ばしにしたり、二の足を踏んでしまっている方も多いようです。
やろうと思えばできる環境にいても、なぜか本当に自分がやりたいことに手を出せずにいる時というのは、大体頭の中にストッパーを創り出し、それがあるからできないのだと、できない理由を何かのせいにしています。仕事があるから、子供がいるから、親が絶対反対するから、周りに変に思われるから、もう年だから、お金がないから、儲からないから、才能がないから、etc...
こういうのは全て言い訳だと思います。実際そうだったとしても何が問題だというのでしょうか。どんなに忙しい人でも、時間は作ろうと思えば一日30分くらい作れるものだし、お金はなかったら稼ぐなり貯めるなりすればいいし、もしくはお金をかけない方法を見つければいいし、周りの誰に何を言われようが気にしなければいいだけですし(その人に関係ないことなので言わせておけばいいと思います)、親や家族の賛同などそもそも全く必要ないですし(気になるなら黙って始めればいいと思います)、才能なんて伸ばすものだし、何かを始めるのに年齢など関係ないですし、お金を得ることと自分の天命に従うことは必ずしも一致しないものですし、とにかく制限をかけているのは自分のマインドでしかありません。
かつての、大人の庇護下にあって自由にやりたいことができなかった時代はもう終わっています。制限に縛られて自分らしく生きられない古い型から抜け出してください。案外簡単に抜けられるはずです。とりあえず、一歩を踏み出してみてください。
〈周囲に流されずに己の道を歩もうと決心した人をサポートしてくれるエッセンス〉
☆セラトー
周りの反応や、他人の意見に必要以上に振り回されて、自分の考えや能力を信じることができない人に。
☆ゴークリエイト
創造と豊かさへと繋げてくれるエッセンス。望ましい現実を創り出すことを妨げているブロックを外すお手伝いをしてくれます。
☆Archangel Michael(大天使ミカエル)
困難な環境にいても、自分の進むべき道に導かれ、強く守られている感覚が得られるエッセンスです。現実的なサポートがやってくることも多くなります。
☆Courage(勇気)
勇気をもたらしてくれるエッセンス。変化を起こすには勇気が必要です。
☆Trust(信頼)
信頼を増すためのエッセンス。自分と大いなる力に対する信頼があれば、状況は気にならなくなります。
☆マウンテンプライド
目標とゴールを定め、そこに向かって前進していくバイタリティと、強い意思をキープしてくれます。問題や困難にぶつかっても、乗り越えていく力を育みます。
☆シューティングスター
自分がこの世に生まれてきた目的を思い出し、個性を開花させて自分らしさを最大限に発揮することを助けます。これを飲んで、やりたかいことが見つかったり、出会いやチャンスに導かれた人多し。
物事が思うようにいかない時、自分が今置かれている環境が理想と全く異なるように感じる時、世の中がまるで敵だらけのように見える時、私たちは鬱屈した精神状態になりがちです。どうせ何をやっても無駄なように思えたり、自分がとっても無力な存在に感じられたり、世の中こんなものなんだろうと諦めモードに入ったり。
そんな時こそ、たとえどんなに小さなことでも、どんな分野のことであっても、とにかく何かしら「行動を起こす」ということが、一見停滞したかのように見える現実を変えていくきっかけになっていくように思います。
私が今よりもっと無力で小さな存在だった頃、世の中全てが灰色のように見えていました。聞こえてくるニュースは暗いものばかりだし、本当にわかりあえる友達もいないし、大人達は制限ばかりかけてくる存在だと思っていました。物質的に何の不自由もない環境で守られて育っていたのだから、感謝こそすれ文句など言ってはいけない状況だったと思うのですが、心の中には常に閉塞感があって、息苦しさを感じていました。一度制限にフォーカスしてしまうと、自分が与えられている恩恵にはなかなか目が向けられないものです。
世の中とは理想とかけ離れた世界なのだと、自分自身で意味づけをしてしまっていたがために、本当にそのように見えてしまい、現実もそのようになっていったのだと思います。今となっては、自分がどれほど恵まれた環境で育ち、どれほどの愛が周りに溢れていたかということがわかるのですが、当時の私にはそれが見えていませんでした。
とにかくそのような感じで閉塞感を抱きながらも、私は常に頭のどこかに「でもこの状況をいつか脱却したい」という思いを強く持っていました。そして、日常の行き詰った感覚が少しでも薄らいだのは、自分を向上させる『何か』を行っている時でした。習い事だったり、学校のお勉強だったり、少し難しい本を読むことだったり。そんなことをしている間は、自分が今しているこの行動が、いつかきっと何かの形になっていくであろうことがぼんやりと感じられ、心が落ち着いていくのでした。
周囲とうまくいかずにつらい思いをしている時でも、自分の感覚では到底考えられないような誰かの行為を見てどうしようもない憤りを感じた時でも、世の中にうんざりしている時でも、とにかく心のモヤモヤを払拭するためには、文句を言うより何かしらの行動を起こした方がよっぽど楽になれたし、自分にも嫌にならずに済みました。誰かが言ったあの嫌な一言のことをいつまでも気にしているより、英語の単語の1つでも覚えていた方が、よほど自分の身にもなるし、世の中のためにも良いのではないかと思っていました。思えば、当時は思うようにならない状況に苛立っていたと同時に、そんな状況を何も変えられない自分の無力さにも怒りを感じていたように思います。
そして私は、そんな怒りのエネルギーを、自分が行動を起こすための原動力に切り替えていたのでした。
本当に無力で何も変えることなどできないと感じていた私ですが、取りあえず常に自分を向上させたいという強い思いのもとで、その時できることを少しずつでもやっていった結果、徐々に環境が変わり、チャンスが訪れるようになり、人とも出会い、自分が積み重ねてきた行動が形として表れるのを感じるようになっていきました。自分がしていることが今の環境と一見何の関係がないかのように見えても、後々思いもしなかった所で繋がったり、何年も前に撒いた種が忘れた頃に花開いたり、本当に人生とは自分の考えの及ばないことがたくさん起こります。
そうは言っても私も特別超人的なことをやってきたわけではないですし、人としてもっともっと向上すべくこれからも努力が必要だと思っていますが、何事も最初は小さな一歩から始まるのものだし、その一歩から次の一歩、更にその次の一歩へと、少しずつ地道な努力をし続けることで、何かしらの道へと繋がっていくものだと感じています。
将来どうなるかなんて考えない方が、かえって楽に今を生きられるようにも思います。実際、頭の中で思い描いていた予想通りに物事が進んだためしがありません。人生とは、人智を超えた大きな力の元で動いていくものなので、自分の力でなんとかしようとがむしゃらにもがくより、大きな力に委ねていた方が、よっぽどスムーズに導かれていきます。
ただ、委ねるというのは何もせずにボーっと過ごすのではなく、目の前にある自分が今「やるべきこと」にフォーカスしてコツコツと体を動かすことでもあると思います。行動を起こさなければ次に進まないからです。今でも私は思うようにいかないことがあれば、とにかく何かしら行動を起こすことにしています。くよくよ悩むより、アクションを起こした方が気持ちが晴れますし、物事が動いていくからです。自分が力不足だと思ったら、技術を磨くために練習をするなり、本を読んで知識を増やすなり、詳しい人に話を聞くなり、何かできることが必ずあります。許しがたいと思うようなことが起こったとしても、怒りを誰かに向けるより、人のためになる何か別のことをしていた方が、よほど世の中に貢献できる気がします。
後ろを向かず、結果も期待することなく、「今」なすべきことをなす。誰もが「今」なすべきことは常に目の前に置かれているものだと思います。
我が家では、家族1人1人にトリートメントボトルがあります。それぞれに今必要と思われるエッセンスを2~3週間に1度くらいの頻度で私が調合し、毎日飲んでもらっています。
主人は、フラワーエッセンスのことを当初は懐疑的にみていたのですが、効果が知りたい私に半ば強制的に飲まされ続けるうちに、いつの間にかそのパワーの確かさに気づいていったようです。今では自ら朝・晩とお水に入れて欠かさず飲んでおり、ボトルがなくなると「あれ?俺のエッセンスは?」と聞いてきます。
お客様からよく、
「うちの主人にも飲ませたいんですが、こういうの信じるタイプじゃないんですよね・・」
といったお声を頂戴します。我が家の主人もそういうタイプだったのでよくわかります。私の場合、”生きた実験台として仕事に協力してもらう”という名目があったので強引に飲んでもらってはいたものの、最初はおそらく気が乗らなかったのではないかと思います(注:一般的には、本人の了承を得ないまま無理やり飲ませるべきではない、とされています)。
男性は特に、こうした目に見えないエネルギーを扱うものに対して、論理的な説明がないと納得できず、最初から拒絶反応を示すことが多いようです。また男性は、弱みを見せることに抵抗を感じることが多いようで、悩みや抱えている問題を他人に打ち明けることを恥ずかしいと思ったり、悟られないようにすることさえあります。たとえ問題を抱えていたとしても、フラワーエッセンスなどの力に頼るのではなく、己の力で克服したいと思うものなのかもしれません。
ちなみに我が家の主人は、私と違って完全に理系の分野で生きてきた人です。科学的に証明できないことに対しては最初から一刀両断していました。けれど、私と結婚してこれまでとは全く異なる世界観に触れるようになってから、少しずつ自分の考えるこの世の成り立ち観が変わっていったようです。物理畑出身で、元々宇宙とか波動といった話には興味がありました。私なりの観点で学んできた宇宙観やエネルギー観をあれこれと話すうちに、視点も柔軟に変化し、次第に宇宙とスピリチュアルな世界は繋がっている、という感覚になっていったようです。
アインシュタインやニュートンといった著名な物理学者も、この宇宙を束ねる”神”的な存在について、深い洞察と熟考を重ねてきました。科学や物理の世界をどんどん突き詰めていくと、誰しもが自然と、この宇宙を創造している存在に考えが及んでいくのかもしれません。
そんなわけで主人に関しては、いきなりフラワーエッセンスのパワーを信じさせようとしたのではなく、「徐々にこちらの世界に引き込んでいく」作戦が功を奏しました。
息子(小3)は、物心ついた頃から自然にエッセンスに触れていたので、抵抗も何も、飲むのが当たり前くらいの感覚でいるようです。今より幼い頃は、エッセンスの効果を本人に確認しようもうまく説明できずにこちらもよくわからない感じでしたが、近ごろは、「最近怒りっぽくなってきたから怒らないの入れて」とか「暗い部屋が怖くならないの入れて」などと自分から言ってくるようになりました。エッセンスがエネルギーレベルで作用していることを感じているようで、つい先日「体の不調はお薬とかハーブで、心はエッセンスだよね」と言っていました。
小学校に入り、いろいろなお友達と接するうちに、自分の感覚と全く異なるタイプの人に戸惑ったり、思うようにならないシチュエーションに苛立ちを覚えることも増え、そんな状況にいかに対応していくかを学んでいるようです。
息子が、「クラスに嫌なことを言ってくる人がいるんだよ~」といった悩み(?)を言ってきた時には、怒りを抑えてくれるエッセンスと一緒に、他人の悪い所だけでなくその人の良い面にも目を向けられるよう、他人を受け入れることを助けてくれるエッセンスを入れます。そんなエッセンスを飲んでいると、次第にその子のことを批判的に言ってくることがなくなっていきます。それは、その子が変わったというより、息子の中でその子に対する見方が変わり、折り合いをつけることができるようになり、ネガティブな感情が湧き出なくなったのだろうと思います。
また、言うべきことはきちんと伝えられるように、勇気をもたらしてくれるエッセンスや、必要以上にネガティブな攻撃を受けないよう、エネルギー的に守ってもらえるようなエッセンスも入れることが多いです。男の子特有の人間関係の中で、学ぶべきことを学びながら、できるだけスムーズに解決に導いてくれるような、力強いサポートをエッセンスから受けているように感じます。
娘(小6)は、最初から唯一私のしていることに興味津々で応援してくれていました。お花のエネルギー的な力を元々感じていたようで、時々何十本も並ぶエッセンスの中からピンポイントで「これ!」と自分に必要なエッセンスを選んだりもしていました(エッセンスの知識もなければ英語のラベルも読めない頃です)。
最近は、思春期の女子特有のお友達関係のお悩みや、この春から始まる中学生活に向けての不安などに対応したエッセンスを選ぶことが多いです。ちなみに今飲んでいるのは、物事を自分でコントロールしようとするのではなく、なるようになるさと流せるようになるエッセンスです。これを飲み始めてから、とっても楽になったとのこと。思春期に入った子供達や、その指導を受け持つ先生達も、日々様々なうねりの中に身を置いていることでしょう。ちょうど今は受験シーズンなので、誰それがどこを受けた、受かった、落ちた、等々様々な情報が飛び交っています。ただ楽しく毎日を過ごしていれば良かった子供時代から、自分の生き方、進路を考え決めていかなければならない時期に差し掛かり、皆不安や迷いに心が揺れているのかもしれません。不安な気持ちを払拭するために、お友達につい辛辣な言葉を投げかけてしまう子もいるようです。
「なるようになるさ」のエッセンスと一緒に、大天使ミカエルのエッセンスも入れています。こちらも大変助けになっているようで、「自分がやりたいことがハッキリ見えるようになって、周りに流されなくなった」とのこと。大天使ミカエルは守りのエネルギーもとても強いので、ネガティブな人間関係などからも身を守ってくれます。一時期お友達関係であれこれと悩むことが多かった娘ですが、最近は安定した友人関係の中で楽しく過ごすことができているようです。
このように家族がそれぞれにエッセンスの恩恵を受けている我が家ですが、もしエッセンスと出会っていなかったら、こんなに日々穏やかに過ごせていたかなと考えてしまいます。人生の流れを決めているのはそれぞれ自分自身だと思うのですが、その過程をスムーズに乗り切れるよう、極端に横道に逸れることなく安定した気持ちで歩めるよう、家族1人1人をエッセンスがサポートしてくれているのを感じています。
世の中で「セレブ」「セレブリティ」と言われている方達をみていると、世間から一般的に抱かれている「幸せそう」「豊かそう」「満たされていそう」といったイメージと、その方達の実際の心の状態が必ずしも一致していないことの方が多いような気がします。セレブと聞いて、まっさきに頭に浮かんだ人物を試しに考えてみてください。その人は、本当に「幸せ」なのでしょうか?
セレブリティと言われるような生活を送っている人達に憧れる気持ちがあるとすれば、それはその人達が送っているきらびやかな生活や金銭的な豊かさ、世間からの注目度、地位、といった物質的な豪華さに心惹かれるのでしょうか。
私は、その人の置かれている状況よりも、心の状態の方が気になりますので、よくマスコミに登場するセレブリティと言われる派手な生活を送っている方々を見ていると、羨ましいとか、あのようになりたいなと思うことはあまりありません。どちらかというと、心が満たされていなそうだなと感じることの方が多いからです。もちろん中には、莫大な富を手に入れながら心も十分に満たされている人もいるのかもしれませんが、かなりの少数派なような気がします。本物の心の豊かさというのは、物質的な富や世間的地位に重きを置いている間は手に入れることができないものなので、そちらに心が奪われているという状態では、真の心の充足感というものは味わえないのではないかと思うのです。
執着がなくなればなくなるほど心が平穏になっていくものなので、逆に言えば、本当の意味で心が平穏な人は、富や地位にこだわりがなく、必要以上に金品や資産をため込むことをしないようにみえます。現世的な執着から解放されている人ほど、富や地位を得たら、それを己の欲を満たすためだけに使うのではなく、自分が得た恩恵を必要としている人や場所に惜しげなく提供しているのを感じます。
セレブの生活まではいかなくても、他人の状況を羨ましく思い、常に自分以外の誰かを指標にして、うわべの豊かさに執着していると、おそらく死ぬまで心が満たされることはないのだろうなと思います。それは、幸せの尺度を「形」に求めている状態です。頭の中に、『こうであったら幸せ』という条件をあれこれと作り、幻の理想郷を目標にして生きているのです。そして、自分が頭の中に作り上げた理想郷と現実を見比べて常に不満を感じ、思うようにいかないことに文句を言い、「ある」ことよりも「ない」ことにどんどんフォーカスしていきます。更に、子供がこういう学校に行ったら幸せ、家を手に入れたら幸せ、お給料がいくらになったら幸せ、etc...あれこれと考えた幸せの条件を次々に手に入れたとしても、心の充足感がさして変わらないことに気づき、愕然とします。あれを手に入れたら幸せになれると思っていたのに、いざ手に入れてみると、喜びで満たされていたのは束の間のことで、すぐにまた新たな目標ができてしまいます。常に、自分が持っていない何かを追い求める日々に戻ってしまうのです。
幸せを「形」に求めているために、「今」に充足感を抱けない状態になっているのだろうと思います。幸せは、「今」ではないどこか別の場所にあると思っているのです。誰か別の人が手に入れているあの境地にいかなければ、手に入らないものだと思っているのです。幸せをわざわざ遠い場所に設定してしまっているのです。
本物の幸せとは、形あるものを追い求めている間は手に入れることができないものなのではないかと思います。心の在り方が全てで、状況は関係ないのです。
幼い頃、誰かの庇護下にある間は、私達にはあまり「自由」がありませんでした。あれをしてはいけません、これをしてはいけません、あれは良い、これはダメ、たくさんの制限がありました。また、こういうことをすれば(言えば)親の顔が曇るとか、逆にこういうことをすれば(言えば)大人からほめられるということを経験で学ぶと、次からは周りの大人達を怒らせないように、喜んでもらうように、賢く振る舞うように自分を演じるようになりました。それは、生きるための手段でもありました。
注目を浴びたい、認められたい、ほめられたい。子供の本能にはこうした欲求があります。それを満たすために、周りの大人達の要求を肌で感じ取り、それに自分を合わせ、動いたり話したりしているうちに、だんだん本当の自分が何をしたいのか、どの道に進みたいのか、わからなくなっていきました。周りの顔色をみて行動する習慣があまりにも長かったので、そうして生きることがすっかり当たり前のようになっていったのでした。
そういった子供時代を過ごしてきた方が大人になると、ある時期に転機がやってきます。周りが喜ぶように選んできた自分の人生が、どうもしっくりこないことに気づくのです。今の道に進むのがあなたのためだと言われてきたけど、今全然幸せじゃない。楽しくない。なんだか本当の自分じゃない感じがする。それに、いつも誰かの監視下にいるような気がする。
それは、「私」が何がしたいかではなくて、どのようにしたら認めてもらえるか、という視点で選択し続けてきた結果、肝心の「私」の望みがなおざりにされてきたからです。常に、周りの目、視線、評価を気にする習慣が続いてきたので、自分の周りにたくさんの監視の目があるかのような感覚が拭えないのです。そんなものは、幻想なのですが。
そこで、道が二つに分かれます。今までのように、「周り」にほめてもらえるような、いい子ちゃんとして生きるか。それとも、自分の心の声に素直に生きるか。
今まで通りの生き方をすれば、現状維持で、人間関係も崩れないし、何となく安心感もあります。けれど、本当に自分の人生を生きている感覚は得られないままです。自由がないからです。変化がない代わりに、喜びもありません。
自分の声に素直になると、今まで続けてきた仕事や勉強を180度変えることになるかもしれません。古い人間関係に終止符を打つことになるかもしれません。必然的に、別れや決別をすることになります。それはとても勇気がいることです。今まで顔色を窺ってきた人に、ハッキリと自分の意思を伝える必要があるかもしれません。驚かれるでしょうし、もしかしたら怒りを買うかもしれません。想像しただけで無理なような気がしてきます。
けれど、その人が自分本来の道を歩む決心をすると、不思議なことに、どんなに困難だろうと思われたいばらの道も、なぜかスッと展望が拓け、視界がクリアーになり、どっちに進んだら良いのか明確にわかるようになります。孤独な道のりを覚悟していたけれど、どこからか自分をサポートしてくれる人が現れ、助けてくれたりします。見えない世界からの援軍もやってきます。それを肌で感じるようになります。妨害や抵抗に遭ったとしても、強力なサポートも同時にやってくるので、あとは意思の力と勇気を持つことで、なんとか乗り切れるものです。
自分の心の声に従って生きる生き方こそが、本当はその人のナチュラルな姿なのだから、そのように生きようと決心した人は、抵抗しなければ自然な流れで導かれるものなのではないかと思います(もちろん、行動を起こすことは不可欠です)。それまでの、自分に無理やり制限をかけていた生き方は、ナチュラルではない状態だったのです。自分の中の恐れやエゴが、本来の自分の周りに固い殻をつくり、そこにしっかりと鍵をかけていただけです。一度鍵を外す決心をすれば、あとは「自然」に、より自分らしい人生に流れていきます。
フラワーエッセンスは、自然界のお花のバイブレーションが入っています。お花のエネルギーを取り込むことによって、自分のナチュラルではない状態に気づかせ、そこから解放させる方向に導かれていきます。より自然な、本来の自分の姿に誘導してくれるのです。人間は自然の一部なので、自分に嘘をついたままの姿は本来の姿ではなく、苦しく、満たされた感覚が得られないものなのかもしれません。
フラワーエッセンスには、現在の変革期に大いに力となってくれるような、浄化・手放し系のものがたくさんあります。様々なメーカーから、数えきれないほど出ています。
うぶすなでも、必要とされているお客様に、浄化・手放し系のエッセンスをお勧めすることが多いです。中でもアンジェリックには、意識の深い部分から揺り動かされるような、魂を揺さぶられるような、そんな力があります。
けれど、そんなパワフルなエッセンスを飲んでも、あまり効果が感じられない人がいるのも事実です。エッセンスは、本人に変わる意思がなければ、意図をもって飲む時ほどの作用がないことが多いです。そもそもその方に、「自分は変わるんだ」「変われるんだ」という強い意思と決意がなければ、いくらエッセンスを飲んでも、そしてどんなに数多くのヒーリングを受けたとしても、恐れや執着に基づいた古いパターンを繰り返すことになると思います。
自分が期待した結果が受け取れないと、人や環境のせいにしたくもなるかもしれません。けれど、周りがこうだから、というのは結局全部言い訳です。
自分が本当の自分らしく自由に、楽に生きたいのであれば、今抱えている心のお荷物を一度捨てなければいけません。過去と決別しなければいけません。恐れを一掃しなければいけません。そのためには、己というものに正面から向き合い、内面が一体どうなっているのか、そこに何があるのか、まずしっかりと見つめなければ始まりません。
多くの方は、この段階で躊躇します。誰だって、自分の内面を知ることが一番怖いものです。見て見ぬふりをしたり、何も問題がないかのように振る舞ったり、自分に嘘をついたりします。その方が楽な面もあるからです。変化を起こすには大きなエネルギーがいります。内側から沸き起こってくる、「変わるぞ!」「必要のないものを捨てるぞ!」という強い信念が、変革への灯をともすのです。エッセンスは、そういう意識を持った人にとっては、強力なサポーターとなってくれます。けれど、根本的な部分で変わる意思がない人には、当然それなりの結果しかもたらされません。その人の自由意思が尊重されるのが、宇宙の法則だからです。エッセンスは例外なく、その人の準備ができた段階までしか、効いてくれません。
反対に、エッセンスの助けがなくても、変わる人は変わります。世の中にはそういう人の方が断然多いです。エッセンスは、あくまでサポートをしてくれる一つのツールでしかなく、変容をスムーズに進めるお手伝いはしてくれますが、自分に変わって何かを決めてくれるわけではありません。全権を委託して頼り切ってしまっても、失望するだけだと思います。
同様に、ヒーラーやカウンセラーも、その方が光を取り戻すお手伝いをするサポーターでしかないので、全権委託をしてしまっては、依存と洗脳の関係になるだけで、そこに成長はないでしょう。ちょっとヒントをもらったり、背中を押してもらったり、元気をもらったりする程度の存在でしかないのではないかと思います。その人が自立していけるようになったら、いつまでも引き留めることはせず、さっと身を引くことが、真のサポーターたる姿ではないかと思います。
これは、かつての私自身が経験したからこそ言えるのですが、自分が誰かに頼らなければ意思決定ができない弱い存在だと思っていると、意思決定を自分の代わりにしてくれるような”強い”人を引き寄せます(家族も含む)。そういう支配欲を無意識下に持っている人が世の中にはたくさんいます。自分の中の不安や自信のなさが、そういう人のエゴと見事にマッチして、自然と引き寄せ合うのです。
自分を奪われないためにも、人生の意思決定は「私」がやるしかない、「私」にしかできないのだ、そして「私」にはその力が備わっているのだということを、信じて頂きたいと思います。
エッセンスを勧めているんだかいないんだかよくわからない文章になってしまいましたが、一番強いのはその人の意思の力で、それに勝るものはないということを、強く感じています。
福島の実家にいた頃、家には時々、近隣の農家の方達が自分で作った農作物を売りに、リヤカーを引いてやってくることがありました。
ある時、呼び鈴が鳴ったのでその時留守番をしていた私が出ると、背中に大きな籠をしょったおじいさんが立っていました。自分が作った立派な枝豆を売って歩いているのだそうです。
おじいさんは、自分の枝豆がどんなに美味しくて他と違うかということを、饒舌に語り出しました。私が黙って聞いていると、おじいさんは枝豆の話から今度は自分の人生について語り始めました。これまでどのようにして農業をやってきたか、どんな農作物をつくっているか、病気になって体が一時不自由になったけどこうしてまた頑張って仕事をしている、家族もいなくなったし今は自分1人だ、体が動くということはありがたいことだ、etc...次々に語り、話は永遠に続くかのように思われました。それでも私がおじいさんの話を聞き続けていると、おじいさんはしばらくしてから話をやめ、ポツリと
「・・・あんたが話を聞いてくれるから、たくさんしゃべっちまった」
と言いました。そして、特に枝豆を売りつけるでもなく、そのまま帰っていきました。
私は昔から、自分が話すことよりも、”聴く”ことの方が得意でした。人が話すのを聴いていると、いつまでも聴いていられました。そして、あなたはよく聴いてくれるから何でも話せる、あなたに話していると心が楽になる、スッキリした、等、ただ聴いているだけでそんな風に言ってもらえることがたくさんありました。
小さい頃はただ単純に、話の内容そのものに興味がありました。少し大きくなると、その話をしている人自身に興味が湧いてくるようになりました。この人は何を感じ、何を伝えたくて、話しているんだろう。私にわざわざ話をしてくれるなんて、ありがたいことだなとも思っていました。誰かの話を聴くことは、たくさんの刺激と学びを与えてくれます。更に、話を聴くことで、その人がスッキリしたり癒されたりするなんて、お互いにとってなんと素晴らしいことでしょうか。
だいぶ大人になってから、「傾聴」という言葉を知った時、ああこれこそが、私が大切にしたいと思っていることだな、と思いました。ただ聞くのではなく、心から「聴く」。心から聴くためには、こちらがその人そのものを受け入れようという姿勢でいなければいけません。聴く側のどこかに、批判的な態度があれば、その人はもう本音を言う気持ちがなくなります。そういう雰囲気は、語らずとも感じ取るものです。
喫茶店などに行くと、会話をする人々の間に、何とも柔らかな”癒し”の空間が出来上がっているのを目にすることがあります。相手と仲良しで気持ちを許し合っている関係だと、心の内を話し、それを受け止め、浄化される、という循環ができるのです。特に、聴く側の人の心の器が広く、ジャッジせずに相手の話を聴いている姿を見ると、その人の姿が一瞬仏様の姿と重なってみえることもあります。
人は、思っていることや自分の中にある感情を言葉に出すことによって、自分でも気づかなかった己の本心を知ることができます。言葉に組み立てるという作業は、自分の気持ちを整理することでもあるので、混乱していた心の中身が客観的に見えるようになって、解決策に自然と導かれるのです。どんな悩みでも、問題でも、答えはいつでもその人の中にあります。モヤモヤとした心の中身が整理されてスッキリした時に、ぱっと解決策が浮かんでくるのは、ただそれまで見えていなかった答えがはっきりと見えるようになっただけです。
誰かの話を心から受けとめて聴くという行為は、その人の心の整理のお手伝いをすることでもあるのです。
本屋さんに行くと、自己啓発・精神世界関係の本の売り場面積が、数年前に比べて格段に大きくなっているのを感じます。それだけ、人々の間で意識の変革が起こり、目覚めが進んでいるのだろうなと思います。
私自身もその手の本はいろいろと読み漁ってきましたが、ここ最近は、古い時代に書かれたものに立ち返って読むことが増えました。特に、お釈迦様やイエス様の言葉には、真理が持つ説得力と、不動の力強さを感じます。
古代から受け継がれる数々の聖典のどれ一つをとっても、この世で多くの人々が追い求めている「富」や「名誉」の取得を人生の目標にすべしなど書かれているものなどありません。真理を悟った人々が説いているのは、”得る”ことではなく、”捨てる”こと、欲を満たすことではなくそぎ落とすこと、己を喜ばせることよりも他者に尽くすこと、この身をいかに世のために生かすかということです。『我』を捨て、大いなる力をいかに信頼し、いかに身を委ねるかということが、どの本にも、表現を変えて繰り返し書かれています。
イエス様やお釈迦様の生き方そのものが、深淵なる教えでもあります。イエス様もお釈迦様も、物を持たず、質素な身なりで、食べ物などは人々に恵んでもらいながら、伝導の旅を死ぬまで続けました。お釈迦様は、お世話をしてくれるお弟子さん達が常にたくさんいるにも関わらず、托鉢に出ていました。托鉢、つまり物乞いです。
今の世で、家も物も持たず、ボロを纏い、人に食べ物を恵んでもらう人といったら肩書はどうなるでしょう。物質的な富や肩書、地位などが、人間の真価といかに関係ないものかがわかります。
「自分が本当にやりたいことがわからない」とおっしゃる方がたくさんいます。何か具体的な目標がないと、人は不安になるのかもしれません。けれど、人生とは、”目標”のためにあるものなのかなと思うと、そうではないようにも思います。イエス様やお釈迦様は、”目標”を達成するために、この世で生きていたわけではないように思うのです。
余計なものをそぎ落とし、真理を探究し、大いなる力に身を委ねる準備ができたら、自ずと、自分が取るべき行動が見えてくるものだと思いますし、それは自然な流れなのだろうと思います。生き方に迷いがあるということは、まだまだ心のお掃除が必要だということなのではないでしょうか。お掃除に集中する時期だということです。そして、それは誰かが決めてくれるものではなく、自分が決めることです。自分自身が、余計なものを手放す決心をしない限り、それはなくなりません。ずっとついて回ります。そして、繰り返し繰り返し同じ学びがやってきます。
本当に「楽」に生きる方法は、実は大昔から人々に教えられてきたということが、書物を読むことでわかります。ただそこにあっても、更にはそれを読んだとしても、その人の準備が整っていない時には、言葉がただ素通りしていくものです。知ることと実践することの違いがそこにあります。そして、真理の道を歩んで実践していくことが、いかに大きなチャレンジかということを、日々痛感しています。
長い間記憶から消えていて、これまで思い出すこともなかったのに、ここ最近になってなぜか脳裏によく浮かぶ出来事があります。
通っていた大学の就活課には、世話人をしている、Oさんという男性がいました。当時で、もうそろそろ引退してもおかしくないくらいの年齢だったように記憶しています。
Oさんは、学生の間ではちょっとした有名人でした。就職活動をしている先輩達が、
「Oさんに叱られちゃったよ~」とか、「Oさんにアドバイスもらったら、内定もらえるようになった」
といった感じで、Oさんのことを話すのをよく耳にしていました。
就職なんてまだまだ先、と思っていたのに、いつの間にか自分にもその時期がやってきました。それまで自分がどんな仕事をするかなんて真剣に考えてこなかった私は、まあなるようになるだろうと、大した準備もせず、随分とのんびり構えていました。やる気も情熱もさしてありませんでした。それでも、周りの友人達が動き始めたのに触発される形で、しぶしぶ思い腰を上げ、なんとなくリクルートスーツを買って、なんとなくそれっぽい恰好をし、なんとなく興味がある分野の会社を取りあえず受けることにしました。
そんな調子で、はなから熱意もビジョンもないままに始めた就職活動は、当然うまくいかず、面接を受けども受けども次の面接の返事がもらえません。同じ時期に活動を始めた友人達が次々内定をもらう頃になって、さすがにこの状況はまずいかもしれないと思い始めた私は、何がいけないんだろう、自分の何が間違っているんだろう、と自問してみました。内定をいくつももらっているような達人に話を聞いて、その人のまねをしてみたり、全然興味がない分野の会社も受けてみました。けれど、ちぐはぐな自分を演じれば演じるほど、空回りをし、余計に良い結果から遠ざかっていくような気がしました。私は、自分が出口のない迷宮にハマりこんでしまったような焦りと混乱の中にいました。
そんな精神的に行き詰った日々を過ごしていた頃、ある日大学に行くと、たまたま前を通りかかった就活課に、Oさんが一人でいらっしゃるのが見えました。いつもは学生で賑わっている就活課が、その時は誰もおらず、Oさんの手も空いているようでした。私は、それまで『自分の力で内定を取る!Oさんには頼らないぞ』と妙な強がりがあって、就活課に足を踏み入れることもしなかったのですが、その時はなんとなく吸い寄せられるようにして、部屋の中に入っていきました。
部屋に入り、Oさんと目が合うと、私の口から
「あの~、就職活動をしているんですけど、まだ内定がもらえなくて・・・」
という言葉が出ました。
「どういう分野に興味があるんですか?」
「今絞っているのは、不動産業界です」
するとOさんは私のことをジッと見てから、こう言いました。
「あなた、おっきい会社ばかり受けてるんじゃないの?」
「・・・あー、そうですね。そういう会社がほとんどです」
「それはやめなさい。あなたみたいな人はね、中くらいの会社がいいの。中堅どころを受けなさい」
Oさんはそのようにハッキリと言いました。あなたみたいな人・・?今日初めて会ったのに、私の何がわかるというんだろう?その時はとても不思議に思いました。
けれどそんな私にお構いなく、Oさんはさっさと会社のリーフレットが並んでいる棚の所に歩いて行きました。そこから、迷うことなく、ある会社のリーフレットを一枚取り出すと、
「あなた、こういう会社を受けてみなさい」
と言いました。それは、私が見たことも聞いたこともない会社でした。都内の、ある分野に特化した、中堅クラスの不動産会社でした。
「いいですか、今日この会社に連絡をして、面接の予約を取りなさい。わかりましたね」。
Oさんの、なぜだかわからないけれど妙に力のある言葉に押される形で、私はその日のうちにその会社に連絡をとり、面接を受けることになりました。そして、面接はとんとん拍子で進み、それまで何をやってもうまくいかなかったことが嘘のように、あっさりと内定をもらったのでした。
ずっとそのことを忘れていたのに、最近なぜだかあの出来事をよく思い出します。最近、プロフェッショナルな仕事をする人というのは、「知識、経験、直観」という3つのスキルを併せ持っているものだなあ、と気づいたことがあり、そんなことを思っている時にふと、Oさんの姿が浮かんできたのです。今考えれば、Oさんはまさに、「知識、経験、直観」を使ってお仕事をされていたと思います。長年多くの学生を見てきて、一目見ただけで、その人にマッチする会社がパッと閃く勘が養われていったのだろうと思います。更に、閃きに必要な情報や知識も持ち合わせていました。
ちなみに後日、内定が決まったことを報告がてら、Oさんにお礼を言いに行くと、Oさんはあっさり、
「ああ、そうですか。それはおめでとうございます」
とだけおっしゃって、それ以上のことは特に何も言いませんでした。いつも淡々と、お仕事をされていました。
Oさんは、かつては私の中で「就職先を紹介してくれた就活課の人」でしかありませんでしたが、今となってみると、その仕事ぶりに何か強烈なメッセージを感じるのです。
学生時代、『聖書研究会』というサークルに入っていたことがあります。友人に誘われて顔を出したのがきっかけだったのですが、サークルの中でクリスチャンでなかったのは、私とその友人の二人だけでした。(しかしその友人も、後に洗礼を受けることになります)
イスラム世界を研究し、コーランを読むようなゼミに所属していたので、自分の中でバランスをとるために、世界三大宗教のうちのもう一つも勉強したいと思っていたのです。ちなみに最後の一つは言わずと知れた仏教ですが、こちらは日本人として生まれ育ったために、幼い頃から馴染みがありましたし、ある程度の知識もありました。私は、カトリック系の幼稚園に通っていた頃から、イエス様の教えには心に響くものを感じていました。イエス様は何を伝えようとしていたのだろうか。聖書を勉強すれば、それがみえてくるかもしれない、と淡い期待を抱いていました。
サークルは週に一回、近くの教会の牧師さんを招いて行われていました。毎回、牧師さんが取り上げる聖書(新約の方)の一説を皆で読み合い、言葉の裏にある意味を推測しあったりして、読み深めていくものでした。私達学生が1人1人思うところを述べた後、牧師さんがまとめて解説してくれるのですが、その解説を聞いているだけで、何とも厳粛な気持ちになり、静謐な空気が流れていくのを感じたものです。
その時の私は、聖書の本当の意味とか、イエス様が言わんとされていたことを、まだまだ浅いレベルでしか理解できていなかったと思います。牧師さんがおっしゃる言葉も、何かとても癒される空気感を感じるのだけれども、その”意味”までは深く入っていかなかったように記憶しています。腹の底で腑に落ちる感覚が得られず、理解したくても、読めば読むほど疑問が湧いてくるのでした。
大学を卒業し、慌ただしい社会人生活が始まると、聖書研究会に入っていた記憶も次第に遠のいてゆき、聖書を手に取ることも読むこともすっかりなくなっていました。
やがて今の主人と出会い、とんとん拍子で結婚することが決まり、それを機に前々から辞めたいと考えていた会社を寿退社という名目で辞めることにしました。ところが、あれほど結婚退職を望んでいたにも拘わらず、結納の直後に、私はマリッジブルーに陥ってしまったのです。自分でもなぜだかわからないこの憂鬱感をどうしたら良いのだろう。何をしても空虚に思えるやりきれなさを何とかするために、その頃実家に一時的に帰省していた私は、幼い頃から通った本屋に毎日入り浸り、心を救ってくれる本を探し求めました。昔からいつも、辛い時に心を救ってくれたのは本でした。
するとある時、ふと手に取った本を読んで、私はガーンと頭を金づちで殴られたような衝撃を受けます。それは、仏教の教えに基づいて、投稿者からのお悩みに回答する、ある著名人の書いた本でした。様々な悩みがある中で、その方の答えは、一本筋が通っており、不動の信念があるのを感じたのです。
私は、自分が仏教に馴染みがあり、何となく理解できていると感じていたけれど、実は深いレベルでは全然理解できていなかったことを思い知らされました。仏教の教えって何だろう。本質的なものを理解したい。そう考えるようになりました。
そこから、様々な仏教関連の本を読み漁り、般若心経なども勉強しました(全て独学ですが)。そんな風に過ごしているうちに、気づいたらマリッジブルーもどこかに消えてしまっていました。思えば、あの時期が、私が深く魂の世界を探求したいと願うきっかけになったような気がします。
スピリチュアルな世界に惹かれていき、子育ての合間にその手の本をたくさんたくさん読んでいるうちに、私はある時、「福音書」をもう一度きちんと読んでみたい、と強く感じるようになりました。なんとなく、イエス様の教えこそが基本中の基本で、全ての原点になるものなのではないだろうか、と直感的に思ったのです。
大人になり、そこそこの社会経験を積み、精神世界の知識もある程度深めた段階で改めてイエス様の言葉と行いの記録に向き合ってみると、若い頃には全く気付かなかった教訓が、深く自分の中に浸透していくのを感じました。イエス様のおっしゃったとされる言葉の裏側に隠れた深淵な意味も、ハートに直接訴えてくるような力強さがあります。
仏教、イスラム教、キリスト教を学んでみて、私は大元に流れる教えは一つなのではないかと感じています。それぞれ表現の仕方は違いますが、根本には共通した真理があって、そこをいかに解説・解釈するか、という部分でどんどん枝分かれしていったのではないかと思うのです。
今でも、時々福音書を開いてはイエス様の言葉に触れ、勇気づけられ、心を浄化しています。日々どんな出来事が起こっても、真理の道さえ見失うことがなければ、何も怖くないのだということを、常に教えてもらっているような気がします。
新しい年になりました。
去年一年間、うぶすなにはたくさんのお客様が来てくださり、電話・メールセッションも含めて私自身もたくさん刺激を受け、多くのことに気づかされ、学ばせていただいた一年間でした。本当にありがとうございました。私もまだまだ自分が学びの途上にあることを自覚しておりますし、本当に未熟な部分もたくさんあります。皆さんと一緒に学び、精進し、成長していけるように、日々の努力を惜しまないつもりですので、今後とも温かい目で見て頂ければ幸いです。
うぶすなを始めたばかりの頃、友人などにお仕事の話をしたら、「えー、そういうのって、どんな人が来るかわからないし、怖くないの?」といった反応をされることが多かったのを覚えています。私自身は、そういった意味での不安や心配など考えたこともなかったのですが、一般的にカウンセリング的なお仕事というと、なんとなく不安定な人たちが来る、というイメージがあるのでしょうか。
実際にうぶすなにセッションを申し込んできてくださる方達は、本当にお世辞でもなんでもなく、心優しくて穏やかで、とても繊細な方達ばかりです。こちらが恐縮してしまうくらい、腰が低くて遠慮深い方が多いです。皆さん本当にお優しいので、私の方が癒されてしまうこともたくさんあります。
繊細で敏感、そして心優しく愛情深い。そういったタイプの方というのは、子供の頃からたくさんたくさん傷つき体験を繰り返してきていらっしゃるので(そして心優しいが故に受け身の姿勢でいることが多い)、すっかり元気をなくして「私なんて・・」という自己否定感に覆われてしまっていることが多いように感じます。私にはそれがとても勿体ないことに思われるのです。
繊細で敏感であるということは、生まれ持った気質ですので、変えることはできません。そもそもその人が生まれ持った気質・性格というものは、ギフトでもあります。
確かに、人よりも敏感で繊細であるということは、それだけショックやダメージの影響も大きくなるということですから、辛い思いをすることが多いかもしれません。そして、私は何かが周りとズレている、ものの考え方やとらえ方が他の人達と何か違う、という感覚から、孤独感にさいなまされてきたかもしれません。誰にも(家族にさえも)理解してもらえないという孤独感です。一見、損しているように思われることもあるかもしれません。
けれど見方を変えれば、人よりも繊細で敏感であるということは、大きな武器でもあると思うのです。自分にしかない感性を生かして、他の人にはできない形で、社会の役に立つことができるかもしれません。自分と似た気質で悩み多き人生を送っている人に、エールを送ることができるかもしれません。自分が苦しみから脱した暁には、きっとその経験が、今度は誰かの助けとなる日がくるはずなのです。苦しみの渦中にいる間は、なかなか前向きにとらえることが難しいかもしれませんが、どんな出来事でも何か意味があって起こっていると思います。
神様からもらったギフトを使って、自分のカラーを最大限に輝かせ、与えられた使命を貫くことが、そもそもこの世に生まれてきた目的なのではないでしょうか。過去にどれほど自分が受け入れられなかったとしても、それがその人の価値や存在意義を落とす理由にはならないと思います。たまたま、周りがそういう人たちだったというだけです。究極的には、そんな環境を自ら選んで生まれてきたわけですから、責任は自分にあるともいえます。つまり、誰も悪くないのです。
もしかしたらあなたは、敢えてそうした厳しい環境を選んで、自分の意思の強さを試すという課題をもって生まれてきた勇気ある魂なのかもしれません。周囲に馴染めず、受け入れられないという厳しい環境に身を置きつつも、意思の力を強く持つことで自己尊厳を取り戻す、というハードなミッションを携えてきたチャレンジャーかもしれません。そんな自分に、お疲れ様、がんばってるじゃん、私!と、どうぞ励ましの言葉をかけてあげてください。
フラワーエッセンスにも、そんな繊細で敏感で傷つきやすく心優しいチャレンジャーをサポートするものがたくさんありますので、心が折れそうな時、行き詰った時には、ぜひ遠慮なくご相談ください。