怒りについてⅡ

 自分の本当の気持ちや思いを封印し、本来望んでいる生き方ではなく、周囲の期待や社会的通念などに合わせた生き方を選んでいる場合。一見周りと調和して、うまくまわっているように見えるかもしれません。けれど、自分自身に嘘をついているので、内面には鬱屈した感情が蓄積されていきます。

 そうしたものが溜まっている場合、ふとしたことがきっかけで、その感情が「怒り」となって表に出てくることがあります。よくあるきっかけをいくつか挙げてみます。

 

1.望み通りの人生を生き、喜びと幸せに満ちて輝いている人をみた時

 

・・・本当は自分もそのように生きたいのに、そのような生き方を選べていない現状が、羨望や嫉妬、ひいては怒りの感情を生むことがあります。「どうしてあの人だけが」とか、「私ばっかりなぜこのように我慢しなければいけないのか」という不満があったりします。実際のところ、本当はいつでも誰でも望み通りの人生を生き生きと送ることが可能なのですが、自分にはできない、無理だ、と思い込んでしまっているために、”できて”いる人を見るとイライラしてしまうのです。怒りの矛先は、相手だけでなく自分自身にも向けられています。

 

2.期待を裏切られた時

 

・・・色々我慢をしているので、思うようにことが進まなかったり、他人の選択が自分の期待とは違うものだったりした場合、受け入れることが難しくなります。根底には、「自分の犠牲に見合った結果を受け取るのは当然」「自分はこんなに我慢しているのだから、相手も我慢をするべき」といった思いがあります。心の声に従って生きていれば、結果にはあまり執着しないものです。

 

3.感謝・評価をされない時

 

・・・自分が我慢をし、犠牲を払っている分、どこかで他人からの感謝や評価を期待してしまいます。そこには、「こんなに頑張っている自分、我慢している自分に気づいてもらいたい」という思いがあります。気づいてもらえていない時や、反応がない時、どうして私のこの苦労・苦しみをわ

ってくれないのか、という怒りが沸いてきます。

 

4.チャンスを取り逃がしている時

 

・・・そうはいっても、宇宙はいつだって、「あなたの本来の生き方はこっちですよ」というサインを送ってきます。そこに気づいていはいるのだけれど気づかないふりをしたり、無視したり、「今はできない」と先延ばしにしてしまうと、そういった選択をしている自分に怒りが沸いてくることがあります。本質とは違う生き方をしている自分には、常にどこかで違和感を感じるものです。自分のことが好きになれない、肯定することができないという場合、自分という存在を受け入れられないのではなく、その生き方を受け入れることができていなかったりします。

 

 

 自分の本当の思いに素直に従って生きていれば、他人の状況や、他人からの反応が気にならなくなります。なぜなら、自分と神(Source)との関係性だけが大事だという感覚が強くなるからです。他の人の生き方や自分がどう思われているかなど、本来気にする必要がないのです。もちろん、振り回されない程度に参考にすることは大事かと思いますし、全く周囲に合わせず生きていくことは現実的ではありません。わがままになり過ぎないように注意を払う必要はあると思います。けれど、必要以上に周囲を気にして生きていると、自分の声が聴きづらくなります。答えは外にあるのではなく、内側にあります。内側に意識を向け、内なる声を聴いていれば、間違った方向に導かれることはありません。ここに信頼を置くことができていれば、周りで起こっている出来事や、他人の言動にいちいち感情が大きく揺れ動くことも減っていきます。