織田信長という人は、意思の力を使って現実を動かしていく能力に長けていた人なのだろうと思います。
一度決めた日程は、何があっても決して変更することがなかったといいます。時には大嵐の中出陣したり、船頭も止める程荒れた海を渡る決断をすることもあったようです。絶対に渡れる状況ではないと思われた川でも、信長軍がいざ入ってみると、なぜか無理なく渡ることができ、後日同じ場所を渡ろうとしても大変な深さで無理だった、といった逸話もあります。
またある時、火起請(ひぎしょう:昔の裁判の一種で、両者決着がつかない場合、熱した鉄を持たせ、持てなかった物の申し立てを虚偽とした)が執り行われている現場を通りかかった信長は、熱した鉄を取り落とした左介という人物が騒いでいるのを見て、同じように熱した鉄をよこすように言いつけます。そしてそれを自ら手の上に受け取ると、三歩歩いて棚に置き、「この通りだ。見ていたな」と言って、左介を成敗させたといいます。自分が無事に受け取る姿を見せることで、文句を封じたわけです。
信長は、現実は意思の力で動かせることを知っており、自分が「こうなる」と決めたことは、必ずその通りになるという自信があったのではないかと思います。また、直観力も鋭い人だったようです。戦という、生きるか死ぬかの瀬戸際で数多くの経験を積むうちに、不可能を可能にしていくコツのようなものを身につけていったのかもしれません。
信長は、人心掌握術にも長けていたようで、どうすれば人は動くのかをよく知っていたようです。ある場所に城を築こうとした際、信長は、最初に大変険しい土地を選び、そこに城を建てると宣言します。家臣たちは、難儀な場所に城を築くものだと不満を抱きます。するとしばらくしてから、今度は最初に言った土地よりもやや建築しやすい土地を選び、「この場所に変更した」と触れを出します。最初に比べればまだましな土地に変わったことで、家臣たちは喜んで城の建築に取り掛かった、といいます。本当は、最初からその土地に建てるつもりだったのです。
また、建築などの工事を行う際には、現場に美しく着飾らせた若者を呼び、笛や太鼓で拍子を合わせて囃し立て、場を盛り上げさせたそうです。工事に携わる人々は、皆調子よく仕事をした、といいます。大変重く大きい石を運ぶ際には、石に美しい布を被せ、たくさんの花で飾らせて、やはり笛太鼓で囃し立てる中、信長自らが馬に乗って先導し、たちまちのうちに移動が完了したこともあります。
比叡山を焼き討ちにしたり仏僧を容赦なく殺戮した信長ですが、神社に寄進をしたり、自ら参拝していた記録があることから、信仰心がなかったわけではないようです。
ただ、最晩年(といってもまだ40代でしたが)の頃は、自らを神にみたて、自身の代わりとなるご神体を祀らせた神社を造って人々に参拝を命じるなど、徐々に驕りが加速していったように感じます。
現実が次々と自分の思う通りに動いていき、公家や天皇さえも動かせるほどの力を持った信長は、驕りという誘惑に打ち勝てなかったように思えます。力を持った時に謙虚さを保つことほど、難しいことはないのかもしれません。
〈参考文献〉
『完訳フロイス日本史』ルイス・フロイス著/中公文庫
『信長公記』太田牛一著 中川太古訳/新人物文庫