復讐

 何年か前にテレビで、息子を殺人事件で亡くし、犯人に死刑を望んでいるという夫婦のドキュメンタリーを見たことがあります。長い時間をかけて死刑を求め続け、ようやく刑が執行されたその日。取材に来たカメラの前で母親が、暗い表情を浮かべて次のように言っていました。

 

「死刑が執行されれば、楽になれると思っていました。でも、今はただ虚しいだけ。心にぽっかり穴が空いたようです」

 

 

 日本では昔から、仇討ちの話が人気で、その代表的なのが「忠臣蔵」だと思います。かつては、親の仇を子供が討つことが公に認められていましたし、周囲がそれを応援することも多かったといいます。日本以外にも、「モンテ・クリスト伯」などの復讐を題材にした物語はいくつもありますし、復讐や仇討ちの概念は、人類全般に共通するものなのだろうと思います。

 

 自分を苦しめた人に、同じような苦しみを味わわせたい。その欲望が満たされた後、果たして人は癒されるのでしょうか。冒頭の母親の言葉が、そうとは限らないということを伝えているような気がします。

 

 実際、殺人のような大きな事件ではなくとも、自分が体験した出来事の中で、自分を傷つけた人が不幸な目にあったからといって、心が完全に満たされたということは一度もありません。誰かを憎んでいる間は、その人がどういう状態であろうと、何が起ころうと、心の中によどんだ感情がくすぶり続け、それが苦しみを引き起こし続けます。私たちが恨みや憎しみ、そしてそれが引き起こす苦しみから本当に自由になれるのは、自らの意思で、相手を赦すことができた時です。相手が変わらなくても、相変わらずの状況が続いていても、何も気づいていなくても、私が憎しみを捨てさえすれば、ずっと背負ってきた重荷から解放されるのです。

 

 それなら、傷つけた人が何も学ばないじゃないかと思うかもしれません。人が学ぶタイミングは、他人が決めることではなく、コントロールしようと思うこと自体がエゴです。私が思い知らせなくても、わざわざ手を汚さなくても、人智を超えた力がいつか働いて、人が自分の取った言動の結果を思い知らされる時は必ず来ます。それがいつなのかは、私たちのあずかり知らぬ領域です。まずは、相手に知らしめたいという欲を捨てることが、最初のステップです。

 

 

「修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか」

 

『ブッダのことば』より 中村元 訳 / 岩波書店