組織からの脱却

 子供の頃に読んだもので、魂の深い部分に響いた記憶がある本がいくつかあります。プロイスラーという人が書いた、『クラバート』という本がそのうちの1つです。私はこの本を確か小学校の高学年くらいの時に読んだ記憶があるのですが、読み終わった後になんともドシーンと残るものがあったのを覚えています。

 その時には、まだこの本の真のメッセージ(私の勝手な解釈かもしれませんが)に明確には気づいていなかったと思いますが、大人になってからこの本のことをふと思い出した時に、「あ、あの本は、支配からの脱却を示唆しているんだ」と感じました。

 大人が読んでも十分に心に響く内容なので、ご興味があればぜひ読んで頂きたいのですが、親方(水車小屋にいるが実は魔法使い)に弟子入りしたクラバートという少年が、親方の下で修業しているうちに、親方の裏の顔に気づき、ある時意を決してその呪縛から逃れる行動に出る・・といったお話です。私はなぜかこの本のことを、大人になってからジワジワと思い出すことが増えました。親方の下に導かれるようにして弟子入りをし、その後親方の本当の姿を知ることになって、不条理に従うことに違和感を覚え、そこから逃れることを考え始める。けれど、一度組み込まれてしまった支配構造から抜け出すのは、そう簡単なことではなかった・・

 最終的には、クラバートは恋人の少女の助けを借りて脱却を果たすのですが、この物語には、示唆的な出来事がたくさん散りばめられています。親方自身も、実は大親方に支配されていて逆らえない状況であること、盲目的に服従する弟子達の姿、逆らおうとしたが、やり方がまずくて身を危険にさらすことになった兄弟子、不安によって自由が奪われ、逃げるという発想すら湧かない異常心理状態など。現代社会においても、組織やグループの中では、こういうことって実はよく起こっているのではないかと思います。

 

 

 最近、娘の仲の良い友達や、知り合いのお子さんが、立て続けに中学校の部活を辞めるという出来事がありました。どちらも、言葉の暴力がひどく、生徒を威圧的に指導する顧問の先生に耐えられず、心が折れてしまったのが大きな理由でした。中学生にとって、所属している部活を辞めるというのは、本当に大きな大きな決断です。どんなにつらくても、なんとか踏ん張って最期までやりきるか、思い切って辞めてしまって自由になるか。きっといろいろな葛藤があったと思います。肉体的にも精神的にも苦痛を感じながら続けるのは本当につらいことですが、辞めたら辞めたで、周りの視線が気になるし、辞めた自分に対する罪悪感や、後悔の念が湧いてきたりと、どちらの決断をするにしても苦しむものです。

 

 けれど私は、自分を追い詰めて取り返しがつかない状況になるくらいなら、いっそのこと今いる環境から思い切って自分を解放してあげて、一度リセットしてもいいのではないかと思います。逃げ、というとなんだかずるいことをしているような響きがありますが、こういう状況では、逃げるというのは身を守るための1つの手段でもあります。逃げるというか、脱出、といった方がいいかもしれません。

 辞めたお子さんのお母さんは、「子供が逃げ癖がついてしまうのではないか」と心配をされていました。そう思う気持ちもわかります。けれど、自分が選んだ組織が、入ってみたら自分に全然合わないことが判明したり、実はとんでもない場所だったことに入ってから気づいたなんてことは、誰もが経験する類のものです。私もこれまでそんなことはたくさんありました・・

 そういう経験も、長い人生の中では数ある学びの1つとして、後々何かの役に立つのではないでしょうか。逃げとか失敗とかみるのではなくて、自分のことをより深く知るきっかけになった体験、今まで知らなかった世の中の現実を身をもって学んだ貴重な経験、ととらえれば良いのではないかと思います。一度こういう経験をすると(もしかしたら何度か同じパターンを繰り返してから気づくかもしれませんが)、自分というものがだんだんわかってきます。そして、世の中にはこういう人もいるのだなということも学び、身の処し方を学習します。

 この世は様々な波長の人が、ごっちゃまぜに存在しています。自分がどんな場所、どんな人と波長が合って、どんなことを本当はしたいと思っているのか。そういうことは、いろんな人と出会って、ウマが合ったり合わなかったりということを身をもって経験して、だんだんにわかっていくものです。それに、ある特定の人とはどうがんばっても波長が合わないということも、ごく自然に起こり得ることです。そういう人とはどういう距離感で付き合うのが良いのか、どうしたらお互いを傷つけずにうまくかわせるか、自分の中でどのように折り合いをつけていけば良いか、そういうことも、全て経験から学んでいくことです。

 

 中学生の部活は、根性論がまだまだ支配的なんだなと感じることが多いです。何十年も昔と変わっていないことが驚きです。でも、世の中や人々の意識は変化していっています。今の中学生も、私達が中学生だった頃とはだいぶ違う部分があります。繊細で、大人より物事をわかっているなと感じる子も多いです。そういう子は、普通に話せばちゃんと理解できるし、大人のことを冷静に見ているので、幼稚な振る舞いには拒否反応を起こします。それなのに、親や先生世代が昔の気質をそのまま引きずり、怒鳴ったり威圧したりすることがマイナスにしかならない子供にまでスポコン指導で接しているのを見ると、空回りしているのがどうしてわからないのだろうかと虚しくなりますし、羽をむしられている子供が気の毒になります。

 もちろん、昔ながらのスポ根気質にぴったりはまる人はそれで良いのかもしれませんが、違うなと感じる人まで、無理して自分を合わせる必要は1mmもないと思います。そんな環境に身を置いて、精神を蝕み、生きる気力までも失われるくらいなら、絶対に絶対に逃げた方が良いです。所属しているグループから出るというのは、本当にエネルギーが必要なことで、勇気と決断と相当な意思力もいります。誰か支えてくれる人がいると心強いです。自分を自由にしてあげた勇気をむしろ褒めてくれる大人がいれば、罪悪感を感じずに済むかもしれません。

 

 今の中学生に、不登校が増えているのも、世の中に対するメッセージなのではないかと感じています。昔から変わらない、同じやり方で、子供達を一緒くたに教育するやり方に、ひずみが出てきているのではないのかなと思います。

 合う子もいるかもしれないけれど、合わない子もいる。合わない子がはじかれてしまい、不必要な劣等感や自己嫌悪を抱くことがないように、個性が大事にされ、子供の選択を大人がサポートしてあげられるような環境が整っていけばいいなと思います。

 今の教育制度が悪いとか、そういう風には思いません。例えば我が家の子供達は、かつての私と違って学校が好きで、生き生きと通っています。親としても、本当に学校ってありがたい、日本の教育は素晴らしいと思うことがたくさんあります。けれど、学校という組織に馴染まない子供がいることも事実ですし、そういうお子さん達が辛い思いをしているのを見ると、私も辛くなります。

 私は今年PTAをしているので、時々子供の学校に行くのですが、自習室という教室の前を通ると、必ず毎回、数人のお子さん達がいます。教室に入ることができずに、一日を自習室で過ごすのです。私自身も、学校が好きではなかったので、教室に行くのに勇気がいる気持ちがわかります。中には、自習室にさえ行けずに、ずっと家にいるお子さんもいます。私は、そういう子達に、本当は声をかけて励ましてあげたいのですが、そんな立場ではないしきっと望まれてもいないので、ただ心の中でエールを送って通り過ぎるだけです。

 学校という組織や、今の教育制度が、どうしても合わない人がいるのも、自然なことだと思うのです。学校や今の教育制度を糾弾するつもりはなく、むしろありがたいと思っているのですが、合わない子に対する救済制度が、もっと充実したら良いなと思います。合わないということは、自然の摂理として起こっていることで、怠惰でも罪でもありません。努力したけれどダメだったことなど、誰にでも経験があると思います。自分に嘘をついてまで、何かに無理やり合わせることは本当に苦痛です。逃げ道は、用意されているものだと思います。罪悪感を感じずに、勇気をもってそちらに踏み出してみたら、案外すんなり進めたりするかもしれません。