自分自身や、自分の内なる声に対する信頼感が低かった時。私にとって理想の”先生”は、私がどのような道を進むべきか、アグレッシブに助言をしてくれるタイプの人でした。あなたはこういう人なんだから、こういう事をした方が良い。あなたの使命は○○なのだから、この道に進みなさい。こういう方法でやりなさい。そんな風に、具体的にハッキリと、道を示してくれるような人に惹かれていました。そして、その先生の下で、その先生の助言に従い、その先生のやり方を踏襲することで安心感と自信を得ていました。
今振り返ってみれば、自分自身で考え、道を切り開いていく勇気がなかったのだと思います。誰かに依存することで、安心とそこそこの成功は約束されていたかもしれないけれど、その分自由と個性と成長は制限されていました。力を持つ人の門下に入れば、その知名度や影響力の恩恵を受けて、自分もある程度活躍の場が持てたりします。けれどその分、師匠に対する絶対服従は逃れられないし(意見をするなどもってのほか)、決められたやり方から外れるようなことができないので、次第に窮屈さを感じるようになるのです。また、自力で考えたり、大きな挑戦をすることがない状況というのは、失敗がない分、学びも少ないです。安定と安心が一番だと考える人もいるのかもしれませんが、私には、自由と変化が限られた環境は耐えられませんでした。
今の私が感じる理想の指導者は、決して自分のやり方や考えを押し付けないタイプの人です。相手の成長と幸せを心から望むのであれば、自分に服従させることではなく、その人が個性と能力を最大限に花開かせられるような、自由な環境を与えるはずです。適度に助言を与えつつ、最終的にはその人が自立できる道へと導いてあげるのが、真の指導者だと思います。
誰もが、本当は自分の望みが何なのか、心の底では知っています。悩んだ時、迷った時も、本当は、答えはその人の中にあります。誰かに教えてもらう必要はないのです。指導者ができることというのは、テクニカルなコツを教えてあげること、希望を持たせてあげること、励まし背中を押してあげること、そして最後に手を放してあげること。そんなものではないかと思います。
自由ほど尊いものはないし、その自由を相手に与えられるかどうかは、その人の魂の成長レベルと心の広さにかかっているように思います。賞賛と金銭に目がくらみ、自分を頂点としたヒエラルキーを造り上げることに執心している指導者は、欲とエゴに憑りつかれています。与えられた力をどのように使うかが、人間として試されている部分かと思います。