私が通っていた幼稚園は、聖母マリア様を名前に抱くミッション系の幼稚園でした。家がクリスチャンだったというわけではないのですが、母は昔近所の教会に時々遊びに行っていた経験があるそうで、何となく良いイメージがあったようです。
幼稚園では、朝の登園後すぐと帰る前に、きまってみんなでお祈りをするのが習いでした。そのお祈りの文句は、「天にまします我らが・・」で始まる文語調の内容で、出てくる単語も「おんみ(御身)」とか「おんな(御名)」といったちんぷんかんぷんなものばかり、幼稚園児には一体何の意味のお祈りなのかさっぱり理解できないまま、ただ呪文のような感覚で唱えていました。
とはいえ、そんな意味不明とも思われるお祈りの文句でしたが、唱えていると何となく厳かな気持ちになり、心が静まるような感覚があったのを覚えています。今でも、お友達や先生方と手を合わせて頭を垂れ、一緒に同じ祈りの文句を唱えているシーンが脳裏に浮かんできます。短い時間でしたが、あれは今思えば癒しの時間でした。
その後、幼稚園を卒園してからはずっとお祈りとも遠ざかった生活を送り、やがて私は大学に入るために上京しました。大学3年生くらいの頃、クリスチャンでもない私は、ある時クリスチャンの友人に誘われたことをきっかけに、聖書研究会というサークルに顔を出すようになりました。そこでも、毎回必ず皆で行う「お祈り」がありました。それは、幼稚園の時に唱えていたような、決まった祈り文句ではなく、その時その時、牧師さんやメンバー達が即興(?)で唱える内容でした。例えば、その時風邪をひいている人がいたら、その人のために、「〇〇さんの風邪が早く治りますように」と言ったり、留年しそうな人がいたら、「△△さんが無事試験をパスできるようにお導き下さい」と言ったり。それは、お祈りといえば幼稚園時代のあの決まり文句しかイメージになかった私にとって、とても新鮮な経験でした。お祈りって、こんな風に自由に言ってよいものなのだということをそこで初めて知りました。
そしてやはり、そこにいる人たちと一緒に手を合わせ、同じ空間の中で、1つのことを祈っていると、何ともいえない穏やかな、優しい、厳かな空気が場を満たすのを感じたものです。一度だけ、何のことを祈ってもらったのか今となっては全く覚えていないのですが、私のために皆が祈ってくれたことがありました。その時は、ビリビリと感じる程、力強い、暖かなエネルギーで自分が満たされていくのを感じました。それは未知の体験で、怖いくらいでした。祈りというものが、何か目に見えないパワーを引き起こすもので、本当に癒しの力があるのだということを、身をもって経験したのでした。
大学卒業後、再び祈りとは無縁の生活に戻り、毎日が慌ただしく過ぎていきました。結婚して子供が生まれ、子育てがひと段落しつつあるのを感じ始めた頃、私はいろいろなきっかけがあって、また「祈り」という不思議な力に興味を抱くようになりました。祈りのことをいろいろと調べていくと、海外には、「祈り」の力を癒しのツールとして使っている人々がたくさんいるということを知りました(キリスト教系の団体が多いようです)。祈りの力だけで病気や怪我の人を治したり、精神的苦痛を和らげたりといった、具体的な実績がたくさんあり、祈りの力を科学的に証明する実験もあるそうです。
とあるアメリカ人の神父さんの本を読んでいたら、次のようなことが書かれていました。
「イエス・キリストが始めたキリスト教が、短期間であっという間に全世界に広がっていったのは、イエス・キリストの教えた内容が人々の心を打ったからだけだろうか。イエス没後、弟子や教徒たちが行った癒しの力が本物で、強力だったからというのが、信者が一気に増えた大きな理由ではないだろうか」
私はこれを読んでなるほどそうかもしれないなと思いました。宗教や教えが多くの人々に受け入れられていく理由は、やはりその宗教や教えによって、”実際に”癒されたり救われる人々が存在するからなのではないかと思うのです。
そしてキリスト教の場合は、祈りの力というものがとても大きな影響力を持っていました。祈りのメカニズムに関してはよくわかりませんが、とにかく何かしらのパワーがあるものには間違いないようです。私自身は何の宗教にも属してはいませんし、これからもそういった団体に入ることはないだろうと思います。ただ、「祈り」の持つ力は実体験も含め確信しているので、宗教とは切り離して、この「祈り」の癒しパワーをもっと自由に、柔軟に、人々が使っていけたらいいんじゃないかなと思っています。