涙と決別

 うぶすなに来てくださったお客様が、お心の内側を話されているうちに、堰を切ったように涙が出てくることがあります。私たち日本人の意識の中に自然と埋め込まれている、”人前で涙を流すのは恥”という概念のためか、そんな時はたいていの方が「ごめんなさい」という言葉を口にします。泣いてしまって恥ずかしい、とお感じになるのかもしれません。

 私としては、そもそも全く謝る必要のないことだと思っていますし、逆に涙が出たのをみると、「ああ良かったな」と思います。なぜかというと、涙が出るということは、1つの区切りだからです。自分の中で、何かを手放した時、そして気づきを得た時、過去にため込んでいたものを浄化し、次に進むために、人は時として涙を流す必要があるのです。

 

 何事も、高い次元でまずことが起こります。その後で、肉体に反応が表れます。人が深い部分で癒されたり、浄化が起こると、それが肉体次元にまで降りてきて、涙という反応として出ることがあります(ヒーリングの最中に自然と涙が出るのはよくあることです)。なので、自然な形で涙が出てきたのであれば、それは手放しのプロセスなので、無理やり止める必要などなく、むしろ流れるがままに流した方が良いです。

 

 ひとしきり泣いた後、スッキリするのは、自分の中にあった古いものを手放したからです。次のステップへと進む心の状態が整ったわけです。涙というのは物理現象なので、古い自分を脱ぎ捨てたことを自分自身が知るためにも、わかりやすい反応といえます。自分で納得しやすいのです。

 

 

 このことで思い出すのは、かなり前の若かりし独身時代に味わった、手痛い失恋時の記憶です。その人と自分は決してうまくいかない、何もかもが合わないことがわかっていたし、幸せになるどころか辛くなるだけ(もう既に十分ツライ思いを味わっていた)だということも知っていたのに、それでも、いざ別れを決意した時、涙がとめどもなく出てきたのです。それはもう、おかしいくらい勝手に出てきて、止めようもありませんでした。泣きながら、「別れた方がいいし、早めにわかって良かったと思っているのに、なんで私泣いているんだろう」と、不思議に思ったものです。

 

 また、これは少し前の話ですが、娘が中学に入ってからというもの、中学生とはこんなにも忙しいものかというほど忙しい毎日を送る娘を、私は頼もしく思ってみていました。朝早く出て行って夕方暗くなってから帰る日々で、土日も部活やら何やらであまり家にいません。親よりもだんだん友達との関係が大事になり、時には私の言うことに激しく反抗することもあります。そんな毎日を本人は生き生きと楽しくやっているし、私もよくここまで成長したなあ、と喜ばしく感じていました。

 けれど、そんな生活が1か月ほど続いた頃。私の中に、何か吹っ切れていないものがある感じがしました。娘の成長と、人生のターニングポイントを喜ばしく思う一方で、新しい段階に進むことに若干抵抗している、何かがあるなと思いました。

 そこで私は、深く長く瞑想をしてみました。私の中にある、このモヤモヤは何ですか、と問いかけながら。

 すると、しばらくしてから、思ってもいなかったことに、涙がスーっと出てきたのです。意外な反応に自分でも驚きました。それは自然に出てきました。そしてその瞬間、

 

「あ、私、寂しかったんだ」

 

 と思いました。

 

 子供の成長を喜ぶ自分がいる一方で、どんどん自分の手から離れていく状況に対して、本当は少し、寂しかったのです。私はそのことを素直に受け入れていませんでした。もうかつてのような、お母さんを全面的に頼って、信頼しきっている小さな女の子ではなくなったことを、心の底から認めることにどこかで抵抗していたのです。親離れしていく子供を無理に引き留めてはいけない、という自分を諫める思いもありました。嬉しいけど少し寂しい、がホントのところだったのに、”寂しい”を否定していたわけです。だからモヤモヤと引っかかっていたのです。

 

 そのことに気づいたら、涙と共に、自分の中にあった抵抗も出て行きました。寂しい思いにきちんと向き合ったら、それはもう抵抗ではなくなりました。そして、気持ちがスッキリして、自分と娘との関係が新しいステージに移ったことを、心の底から受け入れることができました。後ろに引っ張られる気持ちや、モヤモヤがなくなったのです。

 

 

 

 この二つの経験で、どちらとも、私は進むべき道を進んでいることがわかっていたし、自分の選択は間違っていないことも知っていました。だから、なぜ自分が泣いているのかが最初はよくわかりませんでした。これでいいはずなんだから、泣くことなんかないのに。

 けれどやはり、”物理的に”、私は泣く必要があったのだと思います。肉体次元で最後に反応して、はい終了、だったのです。それがあったからこそ、気持ち新たに次の段階へと進むことができました。きっぱりと割り切る決意ができました。

 そういう部分で、涙を流すという行為は、儀式のようなものなのかもしれません。終業式や卒業式をしなかったら、「終わった」気分にそう簡単には切り替わらないことでしょう。頭でわかっているだけでは、人間どこかで納得がいかないものなのかもしれません。