息子が今よりも少し小さかった頃、
「日本で一番偉いのは誰?」
と聞いてきたことがありました。私は返答に困りました。「偉い」という概念を、どのように説明したら良いのだろうかと思ったからです。権力がある人が”偉い”のか、人徳がある人が”偉い”のか、大きな事業を成し遂げた人が”偉い”のか・・
誰が偉いかなんて、その人それぞれの価値観で、変わってくることのような気がします。
イエス様はある時、議論をしていた弟子たちに向かって、一体何を評議していたのかと尋ねました。するとお弟子さん達は黙ってしまいます。道々、自分たちの中で誰が一番偉いかということを論じ合っていたのです。するとイエス様は、12人の弟子たちを集め、次のように言います。
『一番上になりたい者は、皆の一番下になりなさい。皆の召使になりなさい』
弟子の1人が尋ねました。
「ではいったい、誰が天の国で一番偉いのですか」
するとイエス様は、1人の子供を呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせ、このように言いました。
『あなた達は生まれ変わって子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子供のように自分を低くするもの、それが天の国では一番えらい人である』
謙虚であること、自分を特別な存在だと思いあがらないこと、他者より秀でることよりに頓着しないこと・・これをイエス様は言いたかったのではないかと思います。これができないうちは、いつまでも神の国に近づくことはできない、つまり、真の心の平安はもたらされない、ということです。
物理的な富や名誉は、究極の心の平穏はもたらしてはくれません。そういったことに執着している間は、手に入れても手に入れても、心が完全に満たされることはなく、虚しさがどこかに残り続けます。真の幸福は、形ではなく、心の状態だからです。
とはいえ、そういったことが何となくはわかっていても、本当に物理的な欲望を捨てきることは至難の業です。富や名誉を手に入れた人こそが勝者であり、富や名誉さえ手に入れば幸せになれると思わせるからくりが、世間には溢れているからです。形あるものをゴールだと無意識的にとらえてしまうのは、今の世の中では自然なことなのかもしれません。
『狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。命に至る門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!』
”狭き門”から入ることを決心し、それを実行することは、多くの葛藤との闘いを意味します。蛇の道に惹かれ、盲目に突き進むことの方が、はるかに簡単です。
〈参考文献〉新約聖書『福音書』塚本虎二訳、岩波文庫