全ては神の御業

 イエス・キリストが亡くなった後、残された弟子たちは、ある話し合いをしました。12人の使徒のうちの1人であったユダは、イエス様を裏切って反対勢力に引き渡す手助けをした後、それで得たお金である地所を手に入れました。ところが、その場所でユダは、高い所から”さかさまに落ちて”死んでしまいます。

 弟子たちは、そのユダの代わりに誰を使徒に加えるか、神に祈った後、なんとくじを引いて決めることにします。その結果、くじはマッテヤという人物に当たり、彼が使徒に新たに加えられることになったのでした。

 

 こんな大事な決め事を、くじで決めるとは。現代人の私達の感覚では、安直とも思えてしまいます。けれど、神の御業に身を委ねる感覚が強かった昔の人にとって、くじの結果というのは神の御心を表すものであり、今よりも神聖な儀式だったのかもしれません。

 

 易やタロットといった占いもまた、神の啓示を目に見える形で表す方法として、古代から伝えられてきました。全ては神の御業、亀の甲羅や動物の骨に入ったヒビも、シャッフルした後に選ばれたカードも、この世を動かしている見えざる手によるメッセージであるのです。

 

 私が幼い頃、毎年お正月になると、南相馬市の祖父母の家の近くにあった小さな神社でおみくじを引くのが習慣でした。不思議なことに、「お年玉がたくさんもらえますように」とか、「○○を買ってもらえますように」といった、お金にまつわる願い事をすると、その後に引いたおみくじの中には必ず小さな小さな”金の神様”が入っていました。お金に関係のない願い事の時には、金の神様は入っていませんでした。これは私に限ったことではなく、毎年おみくじを一緒に引いていた兄やいとこたちにも同じように起きた現象でした。

 

 子供の通っている学校では、PTAの役員決めの際、委員長や副委員長といった役職を決めるのはいつもくじでした。そうした方が誰からも文句が出ないからなのでしょうが、そもそも人は潜在的に、くじの結果には逆らう感覚が起こらないものなのでしょうか。なぜか、くじの結果には有無を言わさぬ説得力があります。

 そして、くじで決まったメンバーというのは、なぜか常にしっくりくるのが不思議です。やはりくじには、神聖な力が働いているとしか思えません。

 

 来週、娘の中学校の入学式が行われます。式が終わった後、保護者は全員集められ、そこで一斉にくじを引かされることになっています。3年間全てのPTAの仕事がその場で割り振られるとのことです。委員長クラスのヘビーな仕事を引くのか、それとも軽い手伝い仕事が当たるのか。神の采配に委ねます。こんな風に考えていた方が、謙虚に取り組めるような気がします。