「元型」「アーキタイプ」とは、人々の集団意識に存在する、象徴的なイメージを表します。この言葉は、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱したことで有名ですが、元型の概念自体は、古代から私達に受け継がれてきたものです。
例えば、『母親』の元型というと、ふくよかで温かく、料理が上手で世話好き、おおらかで包み込むような優しさを供えた女性、『王様』の元型はというと、どっしりとした体型で威厳があり、カリスマ性と明瞭な判断力を兼ね備えた、不動の自信に満ち溢れた頼りになる男性、といったイメージでしょうか。『孤児』『道化師』『魔術師』『破壊者』等々、元型の種類はたくさんあります。
私達1人1人の中にも、その人となりを形作る要素として、いくつかの元型が存在しているといいます。それは、私達が生まれもった気質、キャラクター、といったものですが、中には埋もれたままだったり無理やり封じ込められたりして、人生で上手く表出し切れていないものもあります。例えば、本当は『自由人』という元型を持っているのに、育った環境がその要素を表に出すことを許さず、無理やり自分を別のタイプに当てはめて生きてきた場合など。その人本来の、自由を求める気質が押さえつけられているので、常に窮屈さと生きづらさを感じ、何となく自分が自分じゃないような、ちぐはぐな感覚を抱くことになります。
または、ある一定の年齢に達してから、殻が破れたように、眠っていた元型が表に出てくることもあります。逆に、幼い頃表に強く出ていた元型が成人後には鳴りを潜め、別の元型が大きな影響力を持つようになることもあります。
その人が元々持っている気質、要素は生まれながらのものなので、自分が何か別のものになろうとしても、疲れるだけですし、徒労に終わることがほとんどです。「キャラじゃない」ことをしても、しっくりこないし、物事もうまく進まないのです。
私の娘は友達を作るのが私よりはるかに上手で、友達との付き合いをとても大事にします。学校だけでなく、習い事先でも必ず仲の良い友達がいて、それぞれの友達と実にマメにコミュニケーションをとっており、その律儀さには頭が下がります。たくさんの友達とワイワイやっているのが一番楽しいようで、放課後や休日時間がある時には、必ず予定を入れてどこかに遊びに出かけます。1人静かな場所で過ごすことが大好きだった私の子供時代とは全く違っているのですが、それは私と彼女とでは持っている要素(元型)が違うからです。
娘はいうなれば『コミュニケーター』『旅人』『仲介者』といった元型の保持者であるのに対して、私は『隠遁者』『修道女』『求道者』辺りがしっくりくるタイプ。1人の時間がとても大切で、大勢の人がいる場所に長くいると疲れてしまいます(だから学校が苦手だったのかもしれません)。
そんな私が、一念発起して娘のように大勢の友人を作ろうと頑張っても、きっと空回りしてうまくいかず、最後には心身ともに疲弊して強制終了することになるでしょう。たくさんの人との付き合いを同時にこなすことが不得手で、映画や舞台鑑賞なども、1人で行った方が楽しめます。一方で、娘にとって友人がいないという状況は「寂しい」以外の何物でもないそうで、その場所が楽しいものになるためには、友人の存在が必要不可欠なのだそうです。彼女にとっては、孤独は癒しというより苦痛に近いかもしれません。
そういえば、会社勤めをしていた頃、最初は事務の仕事をしていたのですが(物足りなさはあったがしっくり感はあった)、その後営業的な仕事をする部署に異動になり、急に自分じゃない人間になることを求められたような状況が苦痛で仕方なかったのを思い出します。それでも、命じられるがままに精一杯仕事を務めようと、頑張ってノルマをこなしていたのですが、無理やり「キャラじゃない」自分を演じ続け、やりがいも感じられない環境に身を置いていることに対して体が先に悲鳴を上げました。思い返せばあの頃は、軽いアル中気味だったし(お酒の力を借りなければ眠りにつけなかった)、ホルモンバランスも乱れていたし、しょっちゅう寝込んでいたし、心の悲鳴を無視し続けた結果、様々な形で問題が表出していたのだなあと思います。
自分が持っていないものを他人に見出して羨ましいと思ったり、いいなと憧れるのは、人間の自然な性かもしれません。そして、周りが求めてくる期待に応えようと、本来の自分を押し殺して違う人間になろうとするのも、誰しもが一度は経験することなのかもしれません。
けれど結局は、自分が持っていないものは持っていないわけですし、どう頑張っても手に入らないものもあります。潔く諦めることと、受け入れることが大切なのだろうと思います。それと同時に、今度は自分が「持っているもの」に目を向けて、それを大事にしていかなければいけません。自分の気質、キャラクター、才能、得意分野、これらは皆神様から与えられた特別なギフトです。どんな人でも、ギフトは必ずあります。それも、一つだけではなく、いくつもあります。
持っていないものは諦め(持っている人に任せましょう)、持っているものを大事にする。私自身も、数々の失敗を繰り返して、ようやくそこに目を向けられるようになってきました。