娘が2歳になるまで、横浜の社宅に住んでいました。とても古くて狭い社宅でした。社宅での記憶は、まだ小さかった娘との思い出ばかりです。
今思えば贅沢なロケーションだったとつくづく思うのですが、みなとみらいへは自転車で行ける距離でした。私はママチャリに娘を乗せて、毎日のようにみなとみらいに遊びに行っていました。福島の盆地で山に囲まれ生まれ育った私にとって、海風が薫るあの場所の雰囲気はなんだか開放的で清々しく、いつもリフレッシュできたのです。
ある時、娘とみなとみらいのカフェで一息ついていた時のこと。私よりも一回りくらい年上のお母さんグループが、近くで楽しそうにワイワイとお茶を飲んでいました。テーブルの周りをヨチヨチ動き回る娘を見て、その中の1人のお母さんが、「あんな時期もあったのねえ・・」とつぶやきました。すると、他のお母さんたちも一斉に、「ほんとね!」「まったく!」とため息交じりにつぶやきます。
「今じゃああいえばこう言う、だものね」
「(全員で)ねーー!」
推測するに、小学校高学年~中学生くらいのお子さん達のお母さんグループのようでした。その会話を聞いた時、私は、「そんなものなのかな」と思いました。当時の私には、子供が学校に行っている間に仲のいいお友達と楽しくお茶を飲めることが、とても優雅で羨ましいことに思えました。自分の時間が少しでもほしかったあの時の私にとって、子供の反抗的な態度など、自由が手に入るならいくらでも我慢するのに、くらいに考えていました。
娘が思春期を迎えた今、あの時のお母さん達のため息交じりのつぶやきに、心から共感している自分がいます。
思春期とは、体の変化と共に、世の中を眺める視点が徐々に変わっていく時期なのだな、と感じています。それまでは、親や先生といった、周りの大人達が言うことを絶対的なものとしてとらえていたのが、少しずつ、そういう人たちが言っていることの矛盾点に気づくようになる時期です。今まで絶対的権威だと思っていた大人達の、嘘やごまかし、実は適当な部分などを見抜くようになり、自分達だって不完全なのに、子供に対して偉そうにしている態度が許せないと感じるようになります。
そして、そういった矛盾に気づきながらも、自分が大人達に完全に逆らうことができない弱い立場であることも、また歯がゆいのです。100%逆らうことに対しては躊躇があり、たくさんの憤懣や怒りを飲み込んでいます。それに、自分の気持ちを整理して言葉で表す能力もまだまだ未熟です。そもそも、自分でも自分の心の状態がよくわかっていないことが多いです。人生で最も複雑な時期なのですから、混乱するのも当たり前かもしれません。荒れ狂う心のさざ波に、自分でもどう対処したら良いのかわからないのです。
過渡期ほど、物事が劇的に変わります。そこに関わる周囲の大人達は、思春期の子供の大きなエネルギーの動きに飲まれることなく、どーんと落ち着いていることが求められます。
特に母親には、一番自分を受け止めてくれる存在でいてほしいと望むようです。私も最近ようやく気付いたのですが(もっと早く気づけば良かったのですが)、子供が母親に対して怒りをぶつけてきた時に、その怒りをそのまま受けてしまったら、自分の怒りスイッチを点火するだけだということです。思春期の子供は、行き場のない怒りのはけ口を必要としています。それが内側に行く子もいれば、外に向かっていく子もいます。その両方もいます。
自分が一番甘えられる存在、自分を無条件で受け入れてくれる存在が母親である場合、その母親を怒りの緩衝材役として無意識に選び、怒りをぶつけます。そんな時に、やってきた怒りを自分に引火させないためには、怒りを受け取るのではなく、流すことが必要になります。スーッと透明な存在になって、怒りをただ通り抜けさせるのです。
どんなにイライラした子供でも、数分間も怒りをぶつけていれば、そのうち落ち着いてきます。ある瞬間から急にトーンダウンし、次第に口調が穏やかになり、目から怒りの炎が和らぐのが見て取れます。怒りを吐き切ったら、後は怒りようがありません。怒りの持続性は長くありません。
慣れないうちは、子供がぶつけてくる怒りにいちいち反応してしまっていた私ですが、それではお互いの怒りが増幅し合うだけで全く意味がないことがわかり(何よりこちらが疲弊します)、最近は自分が透明な存在になることに徹しています。フラワーエッセンスにも助けられています。
10年前、みなとみらいのカフェで出会ったお母さんグループのお子さんたちは、今頃はご立派に成人されていることでしょう。今、あの時期のことを振り返ったら、何と言うのか聞いてみたいです。