思えばここ5~6年間は、自分が過去に植え付けられた様々な「条件付け」を解除する作業をひたすらやり続けてきたように思います。幼い頃から周囲の大人たちやメディア、書物などから様々な固定観念を刷り込まれ、それが自分自身と一体化してしまっていることに、長い間疑問すら感じていませんでした。
条件付けは、「こうしなさい」「こうするべきです」といった”教え”を直接受けることによってなされるとは限りません。私は人の考えや感情、場の空気を敏感に読む子供だったので、直接指示されたわけではなくても、自然と周囲が期待していることや当然そうあるべきと考えていることなどを感じ取り、それに自分を合わせてきました。1人1人が考えていることに限らず、例えば世間一般的に良識とされていることや、常識、風習、道徳観念、伝統、といった漠然とした集合意識にも多大に影響を受けてきたように思います。それらのなんとなく「こうあるべき」という考えに縛られて、自分が本当に思っていることややりたいこと、こうありたいという願望をたくさん封印してきました。
もちろん、世間一般的な考え方が全て間違っているわけではないですし、時には合わせて生きることが必要なこともあると思います。問題は、自分以外の考えや期待、「こうあるべき」という常識などを、私の深い部分では、実は受け入れていなかった時です。本当は、私の心は、魂は、そこに縛られることを望んでいないのに、「こうあるべき」に自分を合わせることを優先させて、本当の気持ちや願望を無理やり封じ込める、そして周囲の願望とは異なる思いを抱いている自分を否定してしまう。こうしたことをたくさん繰り返してきました。
そんな風に、本当の気持ちに蓋をして無理やり偽りの自分を演じていると、不満や怒り、憤りといったネガティブな感情がたくさん湧き出てきます。そうすると、今度はそうした感情を抱いている自分を否定することになります。なぜなら「こうあるべき」に従うのが「正しい」のだから、それに対して不満を抱くなんて、私が間違っている。そうとらえていたからです。否定された感情は、その都度、抑圧され、封じ込められ、蓄積されていきました。
例を挙げてみます。
私は長い間、「おしゃれをすること」に対して罪悪感を抱いていました。それは、幼い頃、「女の子がおしゃれに関心を持つのは良くない」という条件付けをされたからです。例えば洗面所で髪の毛を一生懸命梳かしていたら、「そんな風に髪の毛をたくさんいじるんじゃない」と注意をされたり、自分の好きな色の髪飾りを選ぼうとしたら、「そんな派手なものつけるんじゃない」と否定されたり。そういうことを何度か言われるうちに、私は両親の、おしゃれにあまり関心を持ってほしくない、着飾ることに夢中になってほしくない、という暗黙の思いを感じ取っていきました。服も、だいぶ大きくなるまで、自分が本当に着たいものを選ばせてもらえませんでした。特に、女の子らしい、フリフリの服やピンクの服などは、私が選ぼうとすると母親があまりいい顔をしないので、次第に自分の希望よりも、母親の趣味趣向に自分を合わせるようになっていきました。
おそらく両親はさほど意識をすることなくやってきたのだろうと思いますが、私は人の反応を異常に気にするところがあったので、言った本人が考えている以上に、過敏に反応してしまいました。
また、中学時代という最も多感な時期。学校ではわずかなおしゃれ心も否定されるような状況でした。せめてもの抵抗で制服を密かにアレンジしたり、色付きのゴムで髪の毛を縛ろうものなら、風紀担当の先生達が即座に見つけ、厳しく注意をしてきました。思春期の女の子がファッションに興味を持つのはごく自然な感覚だと思うのですが、明確な理由もなく(勉強に集中できなくなるというようなことを言っていましたが、もちろん因果関係はないと思います)、おしゃれ心を抱くこと、個性を出すことがまるで重大犯罪であるかのように、否定され、ただ罪の意識を刷り込まれていきました。私はそのような大人達の理屈が理解できずに反発を感じていましたが、それでも10代序盤の子供が大人達に威圧的に言われれば、無理やりでも受け入れざるを得ません。今自分が置かれている状況に適応させるため、内側から湧き出る率直な感覚を否定し、抑えることが自然になっていきました。
そんなわけで、大人になってからも、本当に自分が着たい服を着たり、したい恰好をしたり、着飾ったりすることに対して、なぜか抵抗感を感じる自分がいました。自由に服を選んでいる自分に対して、どこか罪悪感がありました。本当はおしゃれもファッションも大好きなのに、それを心から楽しめない自分がいたのです。
そのことに気づいてから、私は自分に刷り込まれた「おしゃれに関心を持つことは良くない」という条件付けを、解除することに決めました。「おしゃれに関心を持つことは良くない」という思い込みを、「私はおしゃれを楽しんでもいい」という発想に意識的に変換するようにしました。お店で好きな服を選び、好きな色を選ぶ時、古い自分の声は「こんな服選んではいけない」とか「もっと地味な色にした方がいい」と言ってくるのですが、その声よりも本当の自分の気持ちを優先させるようにしました。実家の両親の前で、敢えて派手目な恰好をしたり、母親が選ぶ服と真逆のものを選んでみたり、「私とお母さんは趣味が全然違うから!」と宣言してみたりと、リハビリのようなこともいろいろしてみました(ごめんなさい)。
そのおかげで今は、幼い頃の刷り込みから解放され、罪悪感を抱くことなく自由におしゃれを楽しむことができています。
もう一つ、自分が母親になってみて改めて感じたことがあります。私は、女性は子供を持つと、なぜか「母親が人生を楽しんではいけない」とか「自分のやりたいことを我慢しなければならない」といった、自己犠牲的な固定観念に縛られることが多いことに気づきました。子供ができたら、自分のことは二の次にして、子供のため、家族のために尽くすことが美徳であるかのように思われている節があります。それは、直接誰かに言われたわけではなくても、なんとなく世間的にそう信じられていることだったり、映画やドラマなどでもそういう自己犠牲的な母親像が美しく描かれていることなどから、自然とそうした感覚が刷り込まれていくのではないかと思います。また、女性は長い間、自分のことよりも家のことを優先することが当たり前のように生きてきたので、そうした生き方が当たり前のこととして、無意識レベルで代々受け継がれてきたのかもしれません。
私には、多くのストレスを抱えたり、時には健康さえも損なうほど自分を犠牲にして家族のために尽くす母親像が、特別「美しい」とは思えません。むしろ、子供としても、自分の母親が無理をして心にゆとりがなくなったり体を壊すくらいなら、自然体で健康で居続けてほしいと望むでしょうし、我慢して人生をあきらめるより、生き生きと人生を楽しんでいる母親でいてほしいのではないでしょうか。もちろん、子供のお世話や家の用事を放棄してやりたいことを優先させるのが良いとは思いませんが、必要以上に、世間一般的な理想の母親像に縛られているお母さんたちが多いように感じます。
私は、自分の中にもこうした条件付けがあることにある時気づき、これも解除することに決めました。なぜなら、「こうあるべき」に縛られて生きることは、私自身にとってだけでなく、家族にとってもハッピーな結果にはならないと確信したからです。お母さんがハッピーでなくて、家族がハッピーになることはないと思います。
「お母さんは人生を楽しんでいい」。
そのように発想を転換させて人生を謳歌する母親が増えたら、世の中ももっとハッピーになるのではないかと思います。
例えを挙げたらキリがないくらい、私の中には様々な固定観念が刷り込まれていました(今もまだまだあると思います)。細かいものから大きなものまで、とりあえず必要のないものは一掃しようと決め、毎日気づいたらその都度解除するようにしています。
刷り込みから解放されると、心が自由になります。とらわれることなく、自分が本当に選びたい道を選ぶことができたら、調和がとれて、結果的に自分だけでなく周りも幸せになります。
まずは、自分がどんな固定観念に縛られているのか、そこに気づくことから始まります。