愛に基づいた行為と愛を求める行為

  "A Course in Miracles"(Dr. Helen Schucman)によると、この世における全ての行為は、二つに分けられるそうです。一つは、”愛に基づく行為”で、もう一つは、”愛を求める行為”。

 

 一見、愛なんかどこにもないんじゃないかと思われるような悪魔的な行為でも、そこには、やはり愛があるのだということがわかります。つまり、愛に”基づいた”ものではなくても、その行為がなされた背景には、”愛”を希求する動機があるのです。自分を愛してほしい、愛がほしい、愛が足りない、そういった渇望があるから、もっと自分に気づいてもらいたくて、もっと自分に注意を向けてほしくて、もっと自分を愛してほしくて、人は時々他人を傷つけるような反社会的な行動に出るのだと思います。

 

 世の中は目をそむけたくなるような犯罪行為や残虐なニュースであふれかえっていますが、その一つ一つを見聞きするたびに絶望的な気持ちになり、当事者を責めるだけでは、私たちの心が参ってしまいます。私は、どんな残虐行為にも、その裏側には愛を求める欲求があって、愛で満たされたいという魂の叫びがあるのを感じます。そして、当事者の行為自体は決して許せるものではなくても、その人の魂が少しでも愛で満たされることを祈るようにしています。

 ただいたずらに責めたてて罰を与えたとしても、その人が愛に飢えた状態でいる限りは、魂が救われることはなく、人を傷つけることで心の穴を埋めようとする負のスパイラルから逃れることが難しいだろうと思うのです。そうして、再び似たような悪魔的な行為に走ったりして、この世を恨み、自分を責め、他人を傷つけるパターンに苦しみ続けるのではないでしょうか。愛に飢えた状態でいる人が存在する限り、そうした人に危害を加えられる被害者も存在し続け、この世から暴力はなくならないわけです。

 

 犯罪などの被害にあった人の心を癒す必要があるのはもちろんのことなのですが、私は、本当にこの世から残虐行為がなくなるためには、愛に飢えた人を作らない環境を作ることが不可欠だと思っています。そして、悪しき行為を犯した人がいたとしても、その人をいかに処罰するかということに力を注ぐことよりも、その人の満たされない心を埋め、愛を与えることにエネルギーを注ぐことも実は大事なのではないかなと思います。「罪を憎んで人を憎まず」です。