最近、引き寄せの法則もだいぶ世の中に広く周知されてきて、多くの方が自分の内面が外側に反映されているという事実に気づいてきているようです。
それでもまだ、そこに気づいているにも関わらず、いざ自分の身にゆゆしき事態が降りかかった時、やはり「〇〇が悪い、自分は悪くない」という発想になって、誰か他の人を責めたり、文句を言ったり、状況のせいにしたりというパターンに陥っていらっしゃる方をよくみかけます。
私も、引き寄せの法則、波長の法則を頭で理解してからも、しばらくこのパターンからなかなか抜け出せずにいました。
それは、人間の中に根本的にある、大きな「恐れ」の影響を強く受けていたからだと思います。その恐れとは、
『自分が変わることへの恐れ』
『自分が完璧ではないということを認める恐れ』
(*人間の本質は完璧ですが、この世に顕現している姿は、まだまだエゴの虜になっているという事実)
そして何より大きいのが、
『自分の心の中を知ることへの恐れ』
です。
人は他人のことは手に取るように心の中まで見抜くことができても、自分のこととなるとさっぱりわからなくなったりします。それは、実は見えていないのではなくて、「見ないようにしている」からだったりします。知りたくないのです。認めるのが怖いのです。
現状に不満があっても、その原因が自分の内面にあると認めるくらいなら、他人を責めていた方が幾分か楽だったりします。変わるためには大きなエネルギーがいるので、その勇気がないうちは、「このままで良い」「変われっこない」といったエゴの声を聞いてしまったりします。また、敢えて自分にとって耳障りの良いことを言う人の言葉だけを取り入れたりします。
私がまず最初に取り組んだのは(10年近く前の話です)、自分が「変わろう!」と強く決心したことでした。その時の私は、自分が大嫌いで、世の中が嫌で、いろんな事から逃れたくて、不満だらけでした。けれどそんな心の状態にもほとほと嫌気がさしていました。いい加減、グチグチと文句を言ったり、世の中で上手くいっている(ように見える)人を羨んだり、自分はダメな人間だと卑下したり、といった状況から抜け出したかったのです。そこである時、自分は変わろう、変われるんだ、と強く意思決定をしてみました。とりあえず、心の中で叫んでみました。
強く決心した辺りから、何かが変わり始めました。大々的にすぐに変化が起こったわけではありませんでしたが、少しずつ、サポートのようなものがやってくるようになりました。それは本だったり、気づきだったり、人だったり、チャンスだったり、お金だったりもしました。その時の私に必要なものや情報が、ちょうど良いタイミングでやってきました。なんだかわからないけれど導かれるようにして、学んだり、出かけたり、挑戦してみることにしました。
1つの学びが終わると、また別の扉が開いて、新たな学びが始まる、そんな流れでした。(その流れは今でも続いています)
学びの過程で、様々な意識改革が起こっていきました。とにかくいろんな所から情報がやってくるのですが、最初の頃は、情報をただインプットするだけで、腑に落ちる所まで理解するのはもっと後になってからでした。
それは私の中に、例の「恐れ」がまだまだ大きく居座っていたからです。
『自分が完璧ではないということを認める恐れ』。
これがかなり手ごわかったです。当然どこかでは、自分がまだまだ魂の成長過程にいて、学ぶことがたくさんあって、未熟な存在だ(そして学び成長するためにこの世にやってきた)ということは知ってはいるのですが、それを完全に受け入れるには、謙虚であり続けなければいけません。私にはこの謙虚さが足りていませんでした。どこかで、自分は特別な存在だ、自分は他と違う、と思っていたかったのです。また、そのような甘い言葉をささやく人もいました。そういう人の言葉を信じさせるのは、エゴのなせるわざです。
自己啓発系のセミナーなどに行くと、この「自分は特別だ」という思いに支配されている人が驚く程多いことに気づかされます。自分が「選ばれし者」だと思う自己陶酔や、自意識過剰はエゴが肥大化している証拠です。人が意識の覚醒が始まってすぐの段階では、このエゴの虜になりがちなのかもしれません。中には、自分がスピリチュアルな指導者だと勘違いしている、エゴに取りつかれた「先生」もいました。肩書きや財産、権力、知名度、物理的な能力、見た目、儲けなどに固執しているようだったら、まだまだエゴの強い影響下にいるといえます。また、自分の思想を他人(”弟子”)に押し付けたり、徐々に洗脳していき自分の支配下に置く行為もまた、エゴです。真の覚者は、真理を教え広めようとはしますが、それを聞いた人がどうとらえようと気にしませんし、他人が変わろうが変わるまいが、結果や反応には頓着しません。賞賛や報酬も期待しません。受け取ることはあるかもしれませんが、少なくとも賞賛や報酬が目当てでやっているのではなく、奉仕の心が先にきています。
自我意識をできるだけそぎ落として、エゴの支配から逃れることこそが、真の覚醒道なのだなと気づいた辺りで、私はいい加減自分が「完璧」ではないことを認め、謙虚になろうと決心しました。
案外、恐れというのは、一度認めてしまえば後はさほど怖くないものです。なんと皮肉なことに、私はずっと、恐れから逃れることを恐れていただけで、恐れていたことそのものは、実は「怖く」はなかったのです。恐れとは、向き合うのが怖いからそこに在り続けるのであって、正面から向き合ってみると、意外と怖くないものなのです。それどころか、かつて自分が恐れていたことから解放されていくのは、自由を得ていく過程でもありました。自分の中から恐れがなくなっていくのは、何とも心地が良く、私はどんどん楽に、そして軽くなっていきました。