何年か前のこと。ある時突然、私は自動書記というものがでるようになっていました。パソコンの前に座ると勝手に手が動き、キーボードを次々とたたくのです。自分の知らない知識や、知らない情報が次から次へとやってきました。初めは驚きましたし気味が悪いとも感じましたが、その時自分が知りたい情報を訪ねるとその答えが返ってきたりしていましたので、単純に便利だなと思いましたし、そんな状況を愉しんでもいました。霊的なガイドやスピリットたちと繋がって、そうした存在達が色々な事を教えてくれていたようです。元々見えない世界に対する興味がとても強かったこともあり、私はようやくこれで自分が”見えない世界”と繋がることができたのだ、と嬉しくもありました。
ところが、しばらくすると、キーボードをたたく手の動きが次第に鈍るようになっていきました。何も考えなくとも勝手に手が動いていたのに、だんだん重たく感じるようになり、終いには無理やり自分で動かしているような感覚になっていきました。そして、打ち込む文章の内容も、なんだか気味が悪いものになっていき、私は「あ、これはもう終わりにする時だな」と察しました。
あれは一体なんだったんだろう、とずっと考えていました。
今、こうして文章を打っている時は、何となく頭に浮かんでくる言葉を文章にまとめているという感じなのですが、自動書記とは違って、自分の意思がそこにはあります。毎回何となく「こういうことを書こうかなー」という考えが先にあって、パソコンの前に座ると、そのことに関する言葉が次々と浮かんできます。それをそのまま書き起こしています。頭はどちらかというと空っぽにしていた方が、言葉が浮かんできます。自動書記やチャネリングというものとは違うのかもしれませんが、完全に「私」の言葉かというと、そうでもないような気がします。
自分自身の経験を書くこともありますが、どこかからやってくる情報や言葉を受け取ってそれを書き起こしている、ということも多いです。そんな時「私」は、ただ媒体になっているだけのような感じがします。
セッションをしている時も、最近はどちらかというと頭でいろいろと考えるのをやめて、パッと浮かんできた言葉をそのままお伝えすることが多くなりました。その方が、お客様の反応も大きいように感じます。頭で考えて出した答えより、潜在意識にスコーンと入っていくようです。
セッションに限らず、日常生活を送る中でも、例えば今日の献立は何にしようかとか、どのお店で買い物をしようとか、どの本を読もうとか、そういった一つ一つの小さな選択を行う際にも、最近は頭で考えるのではなく、パッと浮かんだ直観や、「なんとなくこっちだな」といった勘に頼ることが多くなりました。そのようにした方が、結果的に満足のいく結果になることがわかったからです。
きっと、潜在意識で受け取った答えの方が、私が本質的に必要としている情報により近いのだろうと思います。また、リラックスしている時やボーっとしている時に多いのですが、「ポンッ」と閃き(インスピレーション)がやってくることがあります。それは、ずっと私が知りたかった情報であることもありますし、なぜ今その情報が来たのだろう、と疑問に思う内容であることもあります。けれど、しばらくすると、その時にやってきた情報が今の私にとって必要な情報だったのだなということがわかるようになります。
あれこれと頭で答えを導こうとするよりも、ベストなタイミングでベストな情報はやってくるものだと信じて、あとは宇宙の采配に身を委ねていた方が何事もうまくいく、と最近は確信しています。
しばらく前までは、いわゆるチャネリング本などを読み漁っていた時期がありましたが、そうした本とも最近は少し距離をおくようになってきました。また、霊能力があると称する人の言葉にも、さほど興味が湧かなくなってきました。そういった他者の口を介して発せられる言葉よりも、私の中にダイレクトに飛び込んでくる、直観やインスピレーションの方が、より私の本質が必要としている答えに近いことがわかってきたからです。
私達には、宇宙と直接繋がることができる能力が本来備わっているのですから、誰かの手を借りなくても、必要な情報は全て受け取ることができると思います。チャネラーやチャネリング本などの知識も役に立つことはあるのですが、あまり他者に頼り過ぎてしまうと、私達がせっかく持っている、自分で宇宙と直接繋がる能力が鈍ってしまうのではないかとも思います。
これからは、何かの媒体に頼るのではなくて、私達一人一人が、宇宙とのパイプを強くしていく時代になっていくようです。意識が覚醒していく過程においては、他者の力を借りることも必要なのかもしれませんが、あるところまできたら、あとはもう自分が直接繋がる力を磨いていく段階に入っていくのでしょう。
自動書記をしていた一時期よりも、今の私の方が、より宇宙とのパイプの強さを感じています。あの時のあの体験は、もしかしたらそのことを私が学ぶためのものだったのかもしれません。