ベクトルを自分に向ける習慣

 イライラしている時、どこかの誰かが許せない時、私達は怒りの矛先をその発信源(だと思い込んでいる)対象物や人に向けがちです。

 あの人のあの行為が許せない、ああいうことをする人が信じられない、こういう人を見ると頭にくる、etc...

 

 次から次へと文句が出てくるものですが、怒りをその人に向けている間は、根本的な解決にはならないものです。

 

 なぜならその「怒り」の元凶は実は自分の内面にあるのであって、今目の前に見ているイライラさせるその人は、自分の内面をただ鏡のように映し出しているだけでしかないからです。

 その人は、私達の内面にある「自分で自分を許せない部分」や、「実は嫌だなと思っている自分の一側面」、「本当はこのようにありたいと望んでいる自分の姿とは反対の状態」などを映し出して見せてくれているわけで、自分の中の葛藤や、変えたいと望んでいる部分に引っ掛かっているからこそ、感情がうずいているのです。そもそもそこに引っ掛からない人であれば、見ていても怒りの感情は湧いてこないものです。

 

 著名人などでひどくバッシングを受ける人がいます。もちろんその人自身にそのような状況を招いた要因があるとはいえ、多くの人々がその人の行為を見て感情が乱されるということは、人々の中に多かれ少なかれ、その人と同じような要素があるということです。そしてそこを、本当は取り除きたいと望んでいるのです。

 

 

 誰かに対して怒りをぶつけている自分に気がついたら、一度感情をその人に向けるのをやめ、ベクトルを自分自身に向けてみることをお勧めします。その人の何がこの感情を引き起こしているのか。どの部分が許せないのか。

 もしかしてその人の”許せない部分”は、自分の中にもある1つの側面だったりはしないでしょうか。もしくはその人の姿は、本当はこうありたいと望んでいる理想の姿とは、反対の姿なのではないでしょうか。つまりその人を通して、「こうありたくはない」という反面教師を見ているわけです。

 

 負の感情が呼び覚まされる人がいたとすれば、その人を通じて自分の内面を知ることができます。私が本当に望んでいる姿、逆に私がこうならないようにしたいと思っていること、気を付けなければいけないこと。心の奥底で望んでいる私らしい生き方や魂の目指す道から外れている人を目の前にすると、人は悪しき感情がうずくようです。

 その人を責めても解決にならないどころか、負の感情によって冷静さを失い、己を見つめるチャンスを逃すことになります。怒りをぶちまけたとしても、一時スッキリはするかもしれませんが、またしばらくしたら再び怒りの感情が湧き出てくることでしょう。己を知るための感情であったのに、そこに向き合わないうちは、何度も同じような人を見て感情が乱される経験を繰り返すことになります。それに悪しき感情に支配されていると、波動も落ちるのでいいことがありません。

 自分の中から出てきた怒りをきっかけに自分を見つめ直し、「ああ、私は本当はこういうことを望んでいたんだ」「私は本当はこのようになりたいんだ」もしくは「私はこのような人物に自分がなることを本当は望んでいないんだ」といった気づきが得られると、次第に感情が落ち着いてきます。そして、目指すべき自分の在り方がしっかりしてくると、どんな人が目の前に表れても、感情が乱されなくなっていきます。

 

 感情は己を知るための指針であり、魂が望む道を示してくれる羅針盤のようなものです。ベクトルを自分に向けることが、実は感情を抑える一番の近道だったりするのです。