学校嫌いだった私の後悔

 先週末は、子供の学校の運動会でした。娘にとっては最後の運動会。学校大好きの娘は、特別感慨深いものがあるようで、メインの組体操に向けて毎日倒立などの練習を頑張っていました。来てくれた人達が感動するような組体操にしたい、といって。

 そういった姿勢を見ていると、学校嫌いで学校行事にも真剣に参加してこなかった自分の小学生時代との違いをつくづく感じます。運動会など、「なんでこんなことやらなければならないの」とふてくされながら参加していたように思います。

 そもそもなぜ学校が嫌いだったかというと、人から何かをやりなさいとか、強制的にさせられることに抵抗があったからでした。それから、学校の先生の言っていることが全部正しいとは思えないのに、ただ先生というだけで素直に従わなければいけないことにも納得がいきませんでした。

 そんなわけで、入学当初から学校と言うものに息苦しさを感じ、どんどん嫌いになり、どんどんふてくされて、反抗的になっていったのでした。ただ勉強自体は嫌いではなかったというかむしろ好きでしたし、表だって反抗するようなこともあまりしませんでしたから、一見真面目な生徒ではあったかもしれません。けれど心の中では常に、学校という組織と先生という存在に、不信感と嫌悪感が渦巻いていました。

 

 今思えば、私がそんな思いを抱いていたからこそ、私の中から「学校嫌い」という波長が放出され、ますます「嫌だな」と思うような事象を呼び寄せていたのかもしれません。先生との相性もあまりよくありませんでしたし、周囲とのいざこざもしょっちゅうありました。小学校生活で、楽しかったなという記憶はほとんどありません。

 

 そのように考えるようになったのは、娘が心から楽しそうに学校生活を送っている姿を見てからです。入学前から「早く学校に行きたい」と学校生活に憧れを抱き、入学を指折り数えてワクワクしている娘を見て、私はひそかに、「あんなふうに今は楽しみにしていても、実際学校に入ったら実はさほど楽しくない現実に遭遇してがっかりするのではないだろうか」などと考えていました。けれど、いざ学校生活が始まってみると、全くその逆でした。娘の「学校好き!」「学校楽しい!」という内面の状態がそのまま現象化したようで、素晴らしい先生、仲間、行事、出来事、etc..に恵まれ、本当に楽しいをキープしたまま最終学年を迎えるところまできたのです。

 

 そんな風に生き生きと学校生活を送る娘の姿に感化され、私も次第に「学校」に対する不信感や自身のトラウマが薄れていきました。大人になってから学校の先生に接してみると、自分の中にあった”怖い”とか”権威的”といったイメージが必ずしも全ての先生に当てはまるわけでもないということに気づき、むしろ先生という職業が尊く思え、感謝の念が湧いてくるようになりました。

 もし私が、最初から「学校大好き」「学校ありがとう!」という気持ちで過ごしていたら、現実もきっと変わっていたに違いありません。そのように思えなかった自分が今となっては悔やまれますが、何かそこにも意味があったのでしょう。

 

 どんな組織にいても、どんな環境下にいても、自分がその場所を愛して、感謝の気持ちを心から抱いていれば、その場所が輝き、自分にとって最高の場所になるのだろうと思います。どんな国のどんな街に住んでいても、どんな家に住んでいても、同じことが言えるのかもしれません。

 今自分がいる場所に不満を感じながら過ごしているのと、愛と感謝の気持ちを抱きながら過ごしているのとでは、現実が変わってくるのでしょう。