必要なものは必要な時にもたらされる

 私が波動療法や肉体次元を超えた”魂”の世界に興味を持つようになったのは、今から7~8年くらい前のことです。

 

 何がきっかけでそちらの世界にひっぱられるようになったのかというと、ハッキリとしたきっかけがあったというよりも、少しずつそうした分野に触れる機会が増えていき、自然と意識が変わっていったように思います。その頃私は、ただ漠然と生きているより、私が今この生を生きている意味や、この世の仕組みや宇宙の真理を理解したい、と思っていました。この世はなぜ存在するのか、「私」という存在はどこから来たのか、古今東西あらゆる宗教が言っている「神」という存在はいったい何なのか。こうした疑問の答えとなる「真理」を知りたい、と強く願うようになっていきました。

 

 

 ある時私は、ハッキリとした明確な”音”として、『ウパニシャット』という言葉が脳裏に響き渡るの体験をしました。高校の倫理の授業で習って以来ずっと忘れていた古い言葉が、なぜ今突然頭に浮かんできたのだろう、と最初は不思議でしたが、そうしたことはよくあることなので、さして気にも留めずにいました。しかし「ウパニシャット」という言葉は私の脳裏に何度も連呼して響き渡り、あまりのしつこさに「もうわかりました!ウパニシャットを調べればいいんですね!」と誰だかわからないけれどその言葉を投げかけてくる”存在”に向かって脳内で叫んでいました。何日か後にようやく図書館で「ウパニシャット哲学」の本を見つけて借りてくるまで、「ウパニシャット」という言葉は私の頭の中でずっと鳴り響いていました。

 

 それはとても古びた本でした。図書館の隅っこに、ひっそりと置かれていました。「ウパニシャット」というのは、インドに大昔(紀元前1500年前位ともそれ以前ともいわれる)から伝わる「ヴェーダ」という文献の一部の名称で、それ自体がいつ書かれたものなのかもハッキリとしたことはわかっていません。そもそも文献として記された時期がいつかということがわかったとしても、その思想自体はもっと昔から存在していた可能性もあります。ヴェーダの教えはヨガ行者たちの間で伝承として語り継がれてきたとも言われ、教えの発祥自体は、もしかしたら気の遠くなるくらい昔のことなのかもしれません。

 

 高校の倫理の授業では、ウパニシャット哲学を深く読み込むことはせず、ただ体系的な知識や言葉を学んだだけでした。当時の私は、そこに出てくる「アートマン」やら「ブラフマン」といった不思議な響きの言葉に興味はあったものの、一体それらの言葉が何を意味するのかよく分からないまま、ただ試験に出てくるからという理由でキーワードをいくつか頭に詰め込んだだけで終わっていました。

 

 大人になり、人間の肉体とは、精神とは、魂とは・・と個人的探求をある程度続けてから改めて「ウパニシャット」の教えに向き合ってみると、高校生の頃にはチンプンカンプンだった「アートマン」や「ブラフマン」「ニルヴァーナ」といった言葉の意味が、「ああ、こういうことをいっているのかな」という感じでストンと自分の中に落ちていくのがわかりました。その時私が知りたいと強く願っていた宇宙の真理が、この本には書かれているのだ、と思いました。

 

 

 その時をきっかけに、魂の覚醒道を突き進もうと決心した私の元には、次々としかるべき時にしかるべき本がもたらされるようになりました。図書館や本屋でたまたま手に取った本に、まさに今知りたいと思っていたことが書かれていたり、インターネットや知人から聞いた話でピンときた本を取り寄せてみたら、まさにその時の自分にピッタリの内容のものだったり、目についた本から「私を読んで!」と訴えてくるようなオーラを感じたりすることもよくありました。大昔に書かれた本もあれば、最近発行された本、既に絶版となっていた本など、種類も様々でした。中には、以前買っておいていたものの、なぜか読むことなく本棚に置かれたままだったものが、ある時パッと目に入ってきて「あ、今これを読むべきなんだな」と感じたこともありました。またある時は、「今日どうしてもあの本屋さんに行きたい!」という衝動が湧いてきて、行ってみるとやっぱり私が探し求めていた内容の本と出会えたりもしました。

 途中から私はすっかりこうした流れに身を任せる感覚が身についてきて、何も考えることなくても、ベストなタイミングで必要な本が私の手元にやってくるのをゲーム感覚で楽しむようになりました。(今現在もそれは続いています)

 

 「ウパニシャット」の本は、私が生まれるずっと前からこの世にあったのに、長い間私は気づくこともなく、手に取る機会を得ないままでした(高校時代に出会ってはいたものの、その時の私はそれに惹かれなかった)。ある時導かれるようにして読むことになったわけですが、そうした流れにも全て意味があり、その時がまさに”時期”だったのだろうなと思います。

 

 本に書かれた深淵なる教えのおかげで、少しずつ意識が刺激されていった私は、それと並行して実生活でも、様々な出会いや経験がもたらされるようになっていきました。

 

 それに関してはまた次に書こうと思います。