先日あるテレビ番組で、昭和(30~60年代)のヒット曲と、平成のヒット曲を集めた特集をやっていました。一昔前の音楽と現在の音楽を聴き比べてみると、曲調や歌詞、テンポや歌い方など、時代を反映してこんなにも異なるものなのかと驚きます。曲がヒットするということは、多くの人に受け入れられているということです。その時代の人々の心の琴線に触れる要素があったり、曲が醸し出す波長と共鳴する人々が多いということだと思います。
テレビ番組やドラマ、映画といった映像の分野でも同じことを感じます。時々、昔の映画やドラマが放映されていると、興味を覚えてつい見てしまうことがあります。昭和時代のドラマや映画を見ていると、これと同じ内容のものが今の時代に放映されていたとしたら、果たして当時と同じように多くの人々に受け入れられるだろうかという疑問が湧いてきます。人々のメンタリティ(意識)は時と共に刻々と変化していくものなので、今から数十年も昔の人々のメンタリティを反映した作品は、今の時代の人々も全く同じように反応することはないのではないかと思うのです。
昭和40~60年代頃にシリーズもので作られた、ある国民的映画を見ていた時のこと。私はその作品の根底に流れる価値観に少し違和感を覚えました。もちろん、どんな映画を作ろうとそれは作り手の自由ですし、それに対する反応も人それぞれだと思うのですが、私はその映画を見ているうちに、自分が窮屈な気持ちになっていったのです。
その映画に登場する人々は、皆何かしらの”縛り”を受けていました。世間体、家族、仕事、しがらみ、お金、等々。まるで、自分の身に降りかかる運命に抵抗することは罪だとでもいうように、自分の意思や心の叫びよりも、周囲の価値観に合わせることを優先していました。特にそこに描かれている女性達は、いわゆる良き母親や良き女性像に沿った生き方を送ることに義務感を覚えているようで、とても自由に生きているようには見えませんでした。
それはもしかしたら、その映画の作り手の、「こうあってほしい」という願望の表れだったのかもしれません。そして、その作り手と同じような願望を抱く人が、当時の世間に数多くいたのかもしれません。今から数十年くらい前の社会では、そのような縛りを受けながら生きることが「美徳」とされていたからです。
それに対して、現在多くの人々に受け入れられているような作品を見ていると、「古い因習や価値観を打ち破る」気概を感じることが多いです。昭和時代の価値観では考えられなかったような、自由で縛られない生き方をしている登場人物が生き生きと描かれていたり、セリフやストーリーがそれまでの因習に囚われない新しい観点で作られていたり。古い価値観から脱皮したがっている、そして実際脱皮をしつつある、現代の人々の内なる望みを反映しているのかなと思います。
時代を経るにつれて、人々の生き方の自由度が増していっているということを、このように芸能の分野で比較してみると強く感じます。