卒業・入学シーズンを迎えていますが、我が家の長男も先日、無事卒園を迎えることができました。長女の時も長男の時も感じたことなのですが、幼稚園というのは大変多く写真を撮るところだなあ、と思います。専属のカメラマンがいて、イベントごとにそのカメラマンがあらゆる角度からパシャパシャと撮影、撮った写真は後日幼稚園に展示され、保護者が選んで購入するシステムになっていました。そうなると、親としてはわが子が写っている写真は購入しなければいけないような気分になり、毎回毎回安くないお金を払って写真を買うことになるわけです。
人はどうしてこうもたくさん写真を撮って、その時の”思い出”を残したがるのだろう、と私はずっと疑問に思っていました。昔から、自分が写真に写ることにも写真を撮ることにも全く関心がなく、そのようなことをして一体何の意味があるのだろう、とまで思っていました(写真そのものを否定するわけではないのですが・・)。何人かの人に聞いてみると、だいたいは「後から見て思い出に浸るため」といった答えが返ってきます。写真とはそうなると、思い出をいつまでもとっておく手段であるわけです。
また、先日実家の両親と皆で温泉に行った時のこと。父がふと、「今日こうしてみんなで温泉に来たことを、子どもたちはいつまでも覚えていてくれるだろうか」とつぶやきました。自分と過ごした時のことをずっと覚えていてほしい、思い出として残しておいてほしい、という願望があるのかなと感じました。
思い出というのは目に見える形で実在するものではなく、人の心の中にだけ存在するものですが、それもいつまでも存在し続けるものではなく、その人が忘れてしまったり、この世から去ってしまえばなくなってしまいます。また思い出の内容も、月日が経つにつれどんどん美化されたり断片化されていったり、常に形を変えていくものですし、非常に不安定で不確かなものです。
そのようなものなので、私はあまり思い出というものに執着する気持ちが起こらず、そのために昔から写真を撮ることにも撮られることにも興味が湧かなかったのかなとも思います。
”思い出”という形で人の記憶の中にたとえ残らなかったとしても、その人が生きて体験して感じたことは、どんな些細なことであってもひとつ残らず宇宙のどこかに記録され(永遠に消えない)、更にその人自身の血となり肉となり成長の糧として役立っていくものですから、記憶に残るか残らないかということはさほど重要なことではないのではないかと思います。
毎瞬毎瞬を明るく楽しく過ごすことによって、より充実した未来が形作られていくわけですから、過去や思い出に縛られるよりも、そして思い出として残るか残らないかにこだわるよりも、今現在を楽しく充実させたものになるよう、今この瞬間に最もエネルギーを注ぎたいと思っています。