普段何気なく生活していて、目に入ってくるもの、耳に入ってくるものを特別意識せずにいると、それはそのまま素通りしていきます。
私たちが今生きているこの物質世界では、肉眼で見ることができるものしか、なかなか「存在」を認識できないものです。
でも、少し自分の感覚を鋭くさせ、目に入ってくるもの、耳に入ってくるものを「目」や「耳」ではなく、「感覚」でとらえる訓練をしていくと、それらの裏にある自分へのメッセージに気づく頻度が増えていきます。
例えば、たまたまつけたテレビの番組に、自分が悩んでいたことに対する答えやヒントが隠されていたり、たまたま入ったお店に流れていた音楽の歌詞に注意を向けてみると、その時の自分を励ます内容だったり・・感覚を研ぎ澄ますようになってから、私にはそうしたことがたくさん起こるようになりました。というより、そうしたことに気づくようになりました。今までも、そうした形でのメッセージは受け取っていたのだと思います。ただ、気づかずにいただけで。
少し前ですが、日々忙しく過ごしていた時期があって、心も身体も疲れ気味だったことがありました。主人の運転する車の助手席に座り、「あー、なんか疲れたなあ・・こんなにあくせく動いて、ホントに報われるのかなあ」などとぼんやり考えていたときのこと。隣の車線から、私たちの車の前に割り込んできた車がありました。その車の後部ガラスに書かれた文字がパッと目に入ってきたのですが、そこにはなんと、「神」と書かれてありました。(名前に神がつく畳屋さんの車でした)直観で、「あ、これは”信じなさい”というメッセージだな」とわかりました。私は特に何の宗教にも所属してはいないのですが、自分の信じる道を進むことを、メッセージとして受け取り、励まされたのだろうと思いました。
また別の日ですが、夜駅を歩いていた時、ふと顔を上げて目に入ってきた電子看板に、「弥生↑」と書かれていたことがありました(私の下の名前は”弥生”です)。これには少し笑いましたが、元気が出てきました。その時も、自分が今進んでいる道が果たして本当にいいものかどうか、少し悩んでいたのでした。電子看板は、一瞬で画像が変わりますし、私がその瞬間その場所にいて、そして何気なくパッと顔を上げたことも、全て必然だったのでしょう。
自分の身に、それまでの価値観を180度覆すような出来事が起こり、自分でも混乱していた時期、目の前を通り過ぎて行ったトラックにでかでかと「Transformation(変容)」と書かれてあったこともありました。「そうか、今は自分が変容を迎える時期なんだな」と、スッと腑に落ちることができました。
またある時は、こうした形で入ってくるメッセージをたくさん受け取るようになって、
「でも本当に、こういうことってメッセージなのだろうか。私の勝手な思い込みかもしれない」などと考えていた時。あるお店に入った時にかかっていたBGMが、松任谷由美さんの『ルージュの伝言』。そして、こんな歌詞が耳に入ってきました。「♪~すべてのことが~メッセージ~♪」・・・これも答えでした。
このようなことは、ここで挙げたらきりがないくらいたくさんあります。ただの偶然で片付けることもできると思いますが、私はこうした出来事に「気づく」ようになってから、自分にとって適切な時期に適切なアドバイスを得られるようになりました。何もこんな遠回しな形で伝えなくてもいいんじゃないかとも思いますが、高次の世界からのメッセージというものは、非常に控えめで、間接的な形をとることが多いものです。
今日この瞬間から、目に入ってくるもの、耳にはいってくるものに、ちょっとだけ意識的になって「感じて」みてください。きっと、自分でも驚くほど、たくさんのメッセージを受け取っていることに気づくと思います。誰が言っているとか、形式は全く関係ありません。その時に直観で「あ、これはメッセージだ!」と感じれば、それがあなたへのメッセージなのです。