若い頃、私は大変悲観的でした。世の中は悪にまみれていて、つらく悲しいことばかり起こり、この先も大して幸せでない人生を送るのだろうなと、そんな風に思って過ごしていました。なぜか幼い頃から悲劇や恐怖のお話に惹かれ、読んで嫌な気分になるのがわかっていても、そんな本を手に取っては読みふけっていましたので、その影響もあるのかもしれません。
大学の卒業を控えた冬、仲の良い友人2人とヨーロッパ旅行に行くことになりました。それまでにがんばってアルバイトをして貯めたお金を使って、3週間くらいかけて6か国を周りました。楽しい旅行でしたが、旅が終わってしまえば就職が待っています。この先出くわすであろう様々な困難を予想して頭の中であれこれと考えてしまい、心の底から楽しめていませんでした。今から思えば大変もったいないことです。
どこか暗い気持ちを引きずったまま、何か国目かでイタリアを訪れることになりました。ガイドブック通りに名所を回り、フィレンツェのウフィッツィ美術館に行った時のこと。
ある大きな絵が目の前に飛び込んできました。その絵は、ヨーロッパ歴代の巨匠達の作品ばかりが並ぶ展示室の中でも、ひときわ存在感があり、異質なエネルギーを放っていました。私はその絵に目が釘付けになり、そこからしばらく動けませんでした。
それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』でした。解説を読むと、なんと若干二十歳そこそこの年齢で描いたとのこと。しかも、その絵を描いた当初は、周囲の評判もあまり良くなかったそうです。
ガーンと何かで頭を殴られたような感覚というか、平手打ちをされてパッと目が覚めたというか、その絵には、私に強烈なパワーでもって、何かを訴えてくる力がありました。それは、とても明るくて力強いエネルギーでした。それまでの悲観的な、人生を嘆くエネルギーとは全く異なるものです。魂の奥の方から、ジワジワと熱いものが湧き起ってくるのが感じられました。涙が出てきました。
そうだ、人間って素晴らしいんだ!
その時、生まれて初めて、心の底からそう思いました。こんな絵を産み出せるなんて、人間って本当に素晴らしい。こんなに美しいものを造ることができる人間が、世界が、悪にまみれて不幸に満ちているはずがない。人間は美しい。世界は美しいものなんだ。
いくら文章で読んだって、人に言われたって、自分自身が魂の底からそのように感じなければ、本当に理解したことにはなりません。その時の私は、「世界は本当は美しいのだ」ということを、ダヴィンチの絵を見たことによって、頭ではなく魂で理解したのです。その後も、何か嫌なことがあったり、人間不信に陥りそうになった時には、時々このイタリアでの体験がふっと思い出され、「いやそれでも世界は美しいんだ」と思うことができました。
本当に素晴らしい芸術というのは、人の根本的な生き方や考え方を瞬時に変えてしまうくらい、大きなパワーをもっているものなのだなと思います。